若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

詩とは何か

「詩とは何か」という問題は、今の私にとって極めて重大なことではなく、どうでもいいことだ。
誰かが、「これが詩だ!」と言えば、「ああ、そうですか」と言うだけだ。

しかし、小学三年生のときの私にとって、「詩とは何か」と言うのはかなり重要な問題であった。
担任のS先生が、生徒に「詩を書きなさい」と言われたからだ。
S先生は大学を出たばかりの男の先生で、私たちは先生が大好きだった。

放課後オルガンを弾いて、「新しい童謡」みたいなのを教えてくださったことがある。
その中の一つを今でも覚えている。
動物達が集まって、お話の中では、いつも狐はずるくてロバはのろまだけれど、そんなことはない、と抗議する歌だ。
楽しい時間であった。

その先生が、生徒に詩を書きなさいと言われたのだ。
新聞に投稿するつもりだったようだ。
何度か書かされたが、私の「詩」が採用されることはなかった。
私は、どういうわけか「七五調」で書いていたのだ。

先生は、「優秀作品」を朗読されたが、私にはそれが「詩」だとは思えなかった。
「短い作文」だと思った。
「詩とは何か」と私は悩んだが、先生も困ったと思う。
小学三年生が「七五調」で詩を書くのは問題だ。
先生から、何らかの事情説明があってもよかったのではないかと思う。

高校生の時ビートルズを好きになった。
彼らの歌詞を読んでいて、「韻」を踏んでいるのに気づいた。
ヘンな気がした。
「韻を踏む」と言うのは「七五調」みたいなものだと思ったからだ。
ビートルズは「七五調」なのか。

伯母が遺した日記に時々詩が書いてある。
昭和9年の手帳に、珍しい詩がある。
たぶん同志社大学にいっていた弟(私の父)が歌っていたのを書きとめたのだろう。

「秋が来たかや図書館の屋根に
 月がさしたさしたブライトリー

 冬が来たかや神学館の庭に
 雪が積んだ積んだホワイトリー」

珍にして妙だ。
珍妙であるが律儀に韻を踏んでいる、というか、律儀に韻を踏んでいるところが珍妙なのか。

日本語で韻を踏む真似事をしても面白くないのだろう。

私が作った「鹿せんべいツイスト」の歌詞も「韻」は踏んでいない。
そのかわりと言ってはなんだが、「フン」を踏んでいる。