従兄のSさんが亡くなった。
81歳と聞いて一瞬驚いた。
私よりいつつむっつ上だと思ってたから81歳でおかしくないのに81と聞くと「え!」と思う。
Sさんは満州から引き揚げてきた。
Sさんの父親は私の母が尊敬する兄で大秀才だった。
旧制高校で一番九州帝大で一番、軍隊では津田沼の鉄道連隊で一番、各連隊の成績優秀者を集めた近衛連隊でも一番。
満州鉄道に就職、若くして首都新京の機関区長というエリートコース一直線。
それが終戦で暗転。
シベリアに連行されてあとに残されたのは母親とSさんを頭に幼い男の子3人と祖母。
終戦の混乱の中で母親が亡くなり祖母が3人を連れて日本に向かったが船の中で一番下の子が亡くなり、日本に着くとすぐ祖母が亡くなった。
父親がシベリアから帰ってくるまでSさん兄弟は父方の祖父母の元で暮らした。
厳しい暮らしだったという話を聞いたことがある。
シベリアから戻った父と暮らすようになったが、後妻となった人となじめなかった。
「元エリート」の父親はもともと厳しい人だったが、シベリアから帰ってきて一層厳しくなってSさんはつらかったと思う。
私の母が不憫に思って絶えず気にかけていた。
母が世話した女性と結婚した時母はよほど安堵したようで「あの子もやっと落ち着ける場所ができた」としみじみと言った。
いろいろあったけど後半生は恵まれた家庭生活だったと思う。
Sさんは母のことを恩義に感じてくれていて母がぼけてからも何度も介護施設に足を運んでくれた。
私の一番記憶に残っているのは、高校に入った時Sさんから受験参考書を大量にもらったこと。
従兄の中では一番近しい人だったのでちょっとこたえました。
Sさんのことを妹に電話で報告したら去年亡くなった別のいとこ「治雄さん」の話を始めた。
妹が、「治雄さんが亡くなるまで年賀状のやり取りしてた」といろいろ言うけどなんかおかしい。
「それは治雄さんじゃなくて治久さんやで」
「ちがう、治雄さん!私は治久さんなんか知らない。あっちのいとこで知ってるのは治雄さんだけ!」
年賀状を調べてみると言って電話が切れた。
すぐかかってきて、「治久さんやった!」
妹はず~~~っと治久さんのことを治雄さんと思いこんで年賀状のやり取りを続けていたのだ。
治久と書いてあるのに治雄さんと思いこんでた。
思い込みは恐ろしい。
「どうしよう・・・」
知らんがな。