イギリスの社会学者ベアトリス・ウエッブ(1858~1943)の『私の修業時代』第2巻を読んでます。
日本で言えば明治に入ったころ、イギリスでは労働者の貧困が大きな問題になってた。
彼女のような億万長者の子供たちが関心を持って取り組んだ。
慈善活動も盛んだったけど、どれだけ寄付しても貧困は改善しなかったので「社会改革」が必要なのではないかと意見が出てきた。
それにはまず実態調査だということで、やはり億万長者が巨額の金を出して大勢の調査員をやとって「ロンドンイーストエンド地区住民聞き取り調査」を始めた。
対象100万人!
彼女は「コツコツ調査するくらいなら自分にもできる」と思って調査員としてロンドンの港湾労働者や縫製労働者の状況を調査した。
1888年、30歳の時に雑誌に論文を発表したのが論壇デビューとなった。
大きな注目を集めることはなかったが、貴族院の労働問題委員会に招かれて意見を聞かれた。
張り切って行ったら「待っていたのは人は良さそうだけれど労働問題について語る資格のなさそうな男たちだった」。
会議の途中で男たちは「せっかく来てもらったんだから」と昼食をごちそうしてくれた。
食べてたら貴族の女たちが「女学者」の見物にやって来た。
むかついた。
翌日の新聞を見たら自分のことが取り上げられてた。
労働問題については書いてなくて、自分の容貌、スタイル、服装のことばかりだったのでますますむかついた。
彼女は論文を発表した雑誌に「ドキュメンタリー」も発表した。
「論文」では広く関心を集めないと思ったんで「女工日記」と言うのを書いた。
実は彼女は調査するだけでは物足りなくて、女工として縫製工場で働いたんです。
それを小説仕立てで発表したらかなりの評判になった。
「論文」の原稿料は1ページ1ギニーだったのに、「小説」の方は1ページ2ギニーだった。
えげつない工場主のことを書くのには苦労した。
「名誉棄損」で訴えられないようにぼかすのが大変だった。
億万長者の娘が「縫製女工」としてやっていけたのか?
裁縫が得意と言うわけじゃなかった。
まあ「直線縫い」くらいはできると思ったのでズボンの縫製工場に飛び込んだ。
あまかった。
最初の工場はすぐ首になった。
その後の書き方がおかしいんです。
「いくつかの工場で働いたが、最後の工場は自分から辞めた」
行くとこ全部首になって最後だけ首になる前に辞めたということ?
何軒目かの工場で工場主の奥さんが夫に言ってるのを立ち聞きした。
「今度来た子は使い物にならないけど態度がでかいししゃべり方がえらそうだから女工の監督ならできるかもしれない」
奥さん見る目がありますネ。