「ともだち」と「ふるさと」は好感度言葉だと思います。
なんとなくいい感じでどこに出しても恥ずかしくない。
「ともだち」とか「ふるさと」と言ってればいい人みたいな印象を与える。
わたしなんか「ともだち」とか「ふるさと」とか口にする人は警戒する。
なんか魂胆があるんじゃないか。
なんか売りつけようとしているんじゃないか。
イギリスの女性社会学者ベアトリス・ウエッブ(1858~1943)の『私の修業時代』を読んでます。
この人のおとうさんは剛腕実業家でイギリス、アメリカ、ヨーロッパをまたにかけて鉄道会社や炭鉱などを経営した億万長者です。
おとうさんがこう言ったそうです。
「ともだちというのは出来の悪い息子にそこそこのポジションを与えてくれる人のことだ」
これを読んだときどういうわけか安倍元首相と菅前首相の顔が浮かんだ。
なぜか?
わからん。
安倍さんの「おともだち写真」はそういう雰囲気が濃厚である。
いい「おともだち」に囲まれてるという感じである。
菅さんもそんな感じがあるのかな。
そう感じるのは私の性格が悪いからかお二人の不徳の致すところなのかちょっと考えさせてください。
「ふるさと納税」は菅さんが推進した制度です。
財務省のお役人が「税制の根幹を揺るがす」と言って猛反対したそうです。
税制の根幹を揺るがすかどうか私にはわかりませんが日本語の根幹を揺るがし破壊した制度であることはまちがいない。
菅さんは秋田県湯沢市の出身で、東京に出てきて功成り名遂げて、お世話になったふるさと湯沢市に納税するというなら「ふるさと納税」です。
菅さんが湯沢市に納税せず、返礼品がいいからと言って泉佐野市に納税するのを「ふるさと納税」と言うのはどう考えてもおかしい。
おかしいというより狂ってる。
税制の根幹か日本語の根幹か、どちらかを狂わしたことはまちがいない。
両方とも狂わしたのかもしれない。
私にとって以前からちょっといかがわしい言葉であった「ともだち」と「ふるさと」がお二人のせいで決定的にいかがわしい言葉になり果てたのは残念である。