若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

伊達政宗の娘

山本博文著「徳川将軍と天皇

徳川家と、天皇および公家たちとの上下関係、力関係、徳川家と家臣団の主従関係などについて資料を基に書かれた本である。

この本によると、家康、秀忠、家光は、将軍宣下を受けるために、京に上ったが、四代家綱は、江戸を動かなかった。
将軍職与奪の儀式のため、都から江戸へ勅使が派遣されたのであった。
本来、将軍職というのは、天皇に任命してもらうものであるが、家綱以後は、「私がこのたび将軍になりますので、任命しに来なさい」というようなことになったのである。とんでもない話である。

しかし、この本を途中まで読んで、私は、そんなことはどうでもよくなってしまった。
伊達政宗の娘が登場したからである。
政宗の長女で、徳川家康の六男、松平忠輝に嫁いだ女性の名前が、五郎八姫というのである。
「五郎八姫」!

なんじゃそれは?!

伊達政宗に聞きたい!
自分の娘に、どうして「五郎八」などという名前をつけたのか?
伊達五郎八!そんなお姫様、あるのか?
私は、この本の著者である東京大学史料編纂所助教山本博文さんが、この名前の由来について当然説明してくれるものと思って読み進んだが、一切触れていない。

将軍職も天皇もどうでもよい!
「五郎八」じゃ!
どうして書いてくれないのだ!私が知らないだけで、誰もが知ってることなのか?

私は、若草鹿之助商店史料編纂室お殿様事業部に問い合わせてみた。

伊達政宗には16人の子供があった。
他の娘たちには、「牟宇姫」「千菊姫」など、普通の名前をつけている。

そして、五郎八姫については悲しい物語が伝えられていた。

伊達政宗は、初めて生まれた娘を、愛姫と名づけて、かわいがった。
愛姫二歳の四月、老女たちに連れられて青葉城を出た姫は、城近くの広瀬川で若菜を摘んで遊んでいた。
おつきの腰元が目を離した一瞬のうちに、愛姫は広瀬川に落ちて流されていった。
驚きあわてふためく老女たちにはどうすることも出来なかった。
その叫び声を聞いて、向こう岸で畑を耕していた若者が川に飛び込み、姫を助けたが、若者は、雪解けの冷たい水が渦巻く広瀬川の流れにのまれてしまった。

この若者が、高井田村の五郎八であった。
知らせを受けた伊達政宗は、命の恩人五郎八の名前をいつまでも忘れぬようにと、姫の名を五郎八と改めたということである。