若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

春のしるし

桜が咲きかかってるのか散りかかってるのかよくわからない。

テレビでお花見のどんちゃん騒ぎの映像を流していたから、もう散りかかっているのかもしれない。満開のところもあれば散りかけのところもあるのだろうか。先日テレビで見たワシントンの桜は満開だった。花見をする気がないので花便りに縁がない。
四月なんだから春だと思うが、春だ!と断言する気にもなれない。
季節感覚が鈍い。

宗祇は漂泊の歌人であった、と言っても、宗祇が漂泊しているところを目撃したわけではない。
漂泊の歌人だと書いてあるのを読んだことがある。

桜の咲くころ、信濃路を行く宗祇が茶店に立ち寄って茶を所望した。
亭主が出した茶を口に含むと少しぬるかったので

「お茶のぬるきは春のしるしか」

亭主がこたえて

「うめすぎてわがとがのをの花盛り」

楽しいお話であるが、ちゃんと楽しもうとすると「注」が必要だ。
「梅過ぎて」と、湯をうめすぎてをかけてあるのは「注」がなくてもわかる。
「わがとがのを」がちょっとわかりにくい。
「科」まではわかる。
「うめすぎてぬるくなっちゃったのは私の責任です」
ここからは「注」の出番だ。栄西は、宋から持ち帰った茶を、栂の尾の明恵上人に贈り、そこで作った茶は「栂の尾茶」として有名だったらしい。

「注」なしでそこまでわかれば立派なものであるが、そんな人はいないと思うので私が立派でないということはないだろう。
この話が好きで、桜の咲く信濃路の茶店で、宗祇と亭主のやり取りを聞いているような気分になる。