神棚の下に、母の遺影を飾ってある。
平成6年に私が撮影したものだ。
その後、母の認知症は進み、歩けなくなり、食べられなくなり、年々衰えて、やせていった。
葬儀用の写真としてとったのだが、最期はこの写真とはかなりちがったので、これを使ったものかどうか、ちょっと迷った。
「若すぎる」というほどではないが、「今の母」とは離れている。
といって、最近のだと、かなり衰えた感じだし、まあ父がせっかく葬儀用に私にとらせたのだから、これにしとこうということになった。
この写真にして良かった。
葬儀がすんで、この写真を見ているうちに、やせ衰えた母の顔を忘れてしまった。
ずーっと、十数年前のこの写真のままだったように思える。
人間の脳は、都合よくできている。
この写真のころでも、私のことをはっきり認識できなかったりで、元気なころの母とは、顔つきも変わっているはずなのだが、まあ、「私の母」だ。
やせ衰えたら「私の母」ではなくなるのか。
そんなことはないが、こっちの方が私の母らしいと思えるのだ。
これも、「現実を受け入れられない困ったさん」の症状の一つなのだろうか。
「あなたのお母さんの写真を見せてください」といわれたら、どれを選べばいいのだろうか。
「母親度」が一番強い、私の子供時代の母の写真だろうか。
あるいは、母にとっての安心、安定期だったと思える、五十代から六十代にかけての写真だろうか。
写真選びも難しい。