電車で居眠りする人は気の毒である。
私も何度か気の毒な人だったことがあるが、酒を飲んだ帰りのことだから、まだいい。
と思います。
すやすやと眠っているのは、気の毒とは思わない。
口をあけて眠っているのは気の毒に思う。
いつだったか、制服姿の女子中学生が、ぽっか〜ん、と口をあけて寝ていたことがあって、これは可愛かった。
写真にとってプレゼントしたいくらいであった。
これは奇跡的例外で、口をあけて寝ている人は気の毒だ。
中年女性が、がばーっと口をあけて寝ているのを見たときは、顔にハンカチでもかけてあげたかったが、ひげを描いてやりたいと思う人もあるかもしれない。
今朝、電車内で、得体の知れぬ低音が響いているのに気づいた。
いびきとわかるまでに時間がかかった。
「低周波」という感じであった。
「ガ〜〜〜〜〜」
沈黙
「ゴ〜〜〜〜」
沈黙
これが、エンエンと繰り返されたのであるが、はじめ、電車の機械的不調かと思った。
恐怖映画や怪奇映画で、殺人鬼または化け物が登場する前触れのような不気味さであったが、不気味な音の主は、ふつうのおじさんであった。
これまでに経験した最大のいびきは、三十年以上前の道頓堀朝日座で文楽を見ていたときのおっさんのいびきだ。
朝日座に鳴り響いた。
熱演する竹本織太夫だったかだれだったか、声はのどから出すのではない、腹から出すのじゃ!と振り絞る名調子をコケにするかのごとき大いびき。
太夫とおっさんの真剣勝負、手に汗握る観客の期待むなしく、勝敗は決することなく、客席係が現れておっさんに注意して後味悪い幕切れとなった。
おっさんを打ち負かすことができなかった竹本織太夫は、おのれの修行不足を恥じて引退したのであった。