若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

漱石の低温部

江藤淳著「夏目漱石」を読みかけてやめた。

「第五章:漱石の深淵」とか面白く無さそうなタイトルがならんでいるので、「第六章:『猫』は何故面白いか?」から読み始めた。

私が、「我輩は猫である」が好きだと言ったら、「フフン、そんなとこだろう」と鼻で笑う人があるだろうが、笑われても平気だ。
私を鼻で笑う人は鼻ペチャだ。

第六章の最初に、「我輩は猫である」の風刺の世界は「深淵」の上に浮いている、と書いてある。
こんな演歌みたいな文章は嫌いだ。
北島三郎が歌いそうな文句だ。

二行目には、「この低音部に」という文句が出てくる。
音楽の話でもないのに、なぜ「低音部」が出てくる。
こういう文章が、「低音部とは何をさすのか」などという大学入試問題になって、受験生を悩ませることになる。
受験生を迷わせるような文章はダメだ。

「低温部」ならよろしい。
出題者が悩むであろう。

三行目。
漱石の書いた英国18世紀作家論の中で出色のものは、いうまでもなくジョナサン・スイフトに関するものである」
気に入らん。
「いうまでもなく」はよけいだ。
私はそんなもの読んだこともない。
読んでいれば、そうだ!と叫ぶ所だが、読んでいないのを「いうまでもなく」などと言われるとむかつく。
読者をむかつかせてはダメだ。

で、三行目でやめた。
要するに私は文学的ではないのだろう。

昔、ある大物政治家が、「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」という俳句を読んで、「さびしがらすな」の誤植ではないかと言ったそうだ。
「文学的でない人」の例として取り上げたのだろうが、そう単純な話ではないと思う。

「さびしがらすな」と「さびしがらせよ」はちょっとした違いだ。
ちょっと変えれば良くなる俳句は多い。

「古池やかわずとびこまないので水の音しない」

字余りだが、静けさはこっちが上だ。

「秋深き隣は何もしない人」

気楽で良いなあ、という芭蕉のうらやましさがしみじみと感じられる。

「この道や行く人多し秋の暮れ」

ハイキング帰りに芭蕉が詠んだ句だ。

「菜の花や月は東に日も東に」

東の空に、太陽と月が並んで浮かんでいる。
蕪村の幻想的な世界だ。
それでは月が見えないはずだなどと言う人は、文学的でない。

「柿くえど鐘が鳴らない法隆寺

こんなはずではない!話が違う!という子規の焦りがひしひしと感じられる。