60回目の誕生日である。
誕生日と「父の日」が近いので、例年この時期妻子からの激しいプレゼント攻勢にさらされる私です。
さて、空襲の後片付けもまだすまぬ大阪は天王寺の聖バルナバ病院の産室で、昭和21年6月20日、おぎゃあと一声生まれでたのは若草鹿之助であった。
山よりも高き父の恩海よりも深き母の恩、あたたかき愛を受けてすくすくと育つはずであったが、なんと言っても食糧難の時代、小学三年生の健康診断が終わってしばらくしたある日、担任の先生から呼ばれた私は手渡された紙を見てその場に崩れ落ちた。
「栄養要注意」
なぬ!
「栄養要注意」!
まがまがしくも恥ずべき響きを持つその言葉!
ろくなものも食わされていないという感じではないか。
逃げるようにして学校から帰った私は母にその紙を見せた。
母は不機嫌に「K医院へ行きなさい」と言った。
K先生こそ、わが校の校医で、私に「栄養要注意」の烙印を押した張本人である。
学校帰りに何度かK医院へ行った。
先生は私に注射を打った。
何の注射か知らんが、何本か打って私は「栄養要注意」から奇跡の脱出を果たしたのであった。
「60歳」を知ったのは中学のときだ。
『悲しき60歳』という歌がはやった。
遠い昔、トルコの貧しい若者ムスターファが美しき女奴隷に恋をした。
美しき女奴隷を買い戻すため若者は必死で働き金をためた。
めでたく金がたまったが若者は60歳になっていたという悲しい物語であった。
中学生の私は、60歳の老いぼれじいさんが金貨の袋を持って美しき女奴隷の前に立っている哀れでこっけいな姿を想像した。
60歳のじいさんムスターファと美しき女奴隷。
実に不似合いだと思えた。
さて、今私は60歳である。
60歳の鹿之助と美しき女奴隷。
いいんじゃないでしょうか。
不似合いということはないと思う。
私がハーレムのあるじとなって美しき女奴隷達をはべらせているのもいい。
むははという感じである。
想像して笑いをかみ殺すのに苦労する。
しかし、よく考えるとムスターファが60歳なら美しき女奴隷もそれに近いトシだ。
ムスターファはどうしたのであろうか。