河野与一『学問の曲がり角』には、いろんな文章がある。
「アリストテレスの欠伸論」
ある人が、河野さんに、「欠伸はうつるというのは、何時ごろから言い出したのか」と尋ねた。
「なぜそんなことを私に聞く」
「そういうくだらないことをよく知ってそうだから」
アリストテレスの、「同感的作用に関する問題」という文章の中に、欠伸論があるそうだ。
あくびはうつる、とギリシャの人も感じていたのだ。
尿意も、影響を受けると考えられていた。
いろんなことを考えたんですな。
中学一年の時、担任の先生が、特に、女子に注意するといって、話したことを思い出した。
「トイレに行くのに、人を誘ってはいけない。人が行くからといって、いっしょに行ってはいけない」
なぜいけないのだろうかと、しばらく悩んだので、おぼえている。
今は、そんなことで悩んだりしないから、中学のときの方が、アリストテレスに近かった。
「源流にさかのぼる:プラトニックラブ考」
女性をあがめ、肉体的にではなく、精神的に愛するのが「プラトニックラブ」なら、プラトンはそんなことは言っていないそうだ。
プラトンは、精神的愛情の方が肉体的愛情より高級で、精神的愛情は、芸術や学問や国家に向かうと、考えていたが、まあ、難しいことは抜きにして、若いときはとりあえず、美しい女性の尻を追っかけていればよろしい、と物分りのいいところを見せていたのだ。
ところが、ルネッサンスのころのヨーロッパの人が、プラトンならこんなことをいいそうだ、と考えて、いわゆる「プラトニックラブ」を言いだした。
「プラトニックラブ」について、考えたことのない私は、そーですか、というほかない。
「ベルクソンの洗礼」
哲学者の、アンリ・ベルクソンは、ユダヤ教徒だったが、晩年はカトリックを信じるようになっていた。
時は、ナチスによるユダヤ人迫害が始まる時期だったが、ベルクソンはカトリックに改宗しなかった。
「自分は明日迫害されるかも知れぬ人々の間にとどまるつもりだ」
私なら、今のうちに改宗しとこ、と急いで改宗してますね。
解説に、河野与一は、大変な学者だったが、業績らしいものは残さなかったと書いてあるが、私なんかには、『ギリシャ哲学原論』12巻を残されるより、こっちの方が楽しくていい。