高校の美術部の顧問だったS先生が亡くなられた。
四年前の、「米寿を祝う会」で、さすがの先生もトシだなあ、と思った。
米寿で「トシ」はあたりまえだが、そう思うほど、先生は若かった。
若かった、というのは正確ではない。
変化がなかった。
若いころから年寄りじみていた、というべきかも知れない。
美術の先生で、前衛画家でもあったが、どう見ても温厚な常識家という感じであった。
唯一美術の先生らしかったのは、年がら年中、同じ上っ張りを着ていたことだ。
で、ついたあだ名が「着たきり雀」。
我々美術部員は、「チュンさん」と呼んでいた。
東京藝術大学出身だが、生徒には美大をすすめなかった。
「絵では食えない。仕事をしながら趣味で描け」というのが口癖だった。
絵のことで、なにか言われた覚えがない。
「石膏デッサンはするな。日展は見るな」くらいか。
高校生は、好き勝手に、生意気でも無茶苦茶でも、元気よく描いてればよろしい、という感じだった。
もう一人の美術の先生、T先生は、S先生の芸大時代の先輩だったが、体格、性格など対照的だった。
T先生は、絵はこうあるべきだ、という信念に基づいて厳しく指導された。
高校時代は、そんなT先生の方がえらいように思えた。
ほったらかしと思えたS先生のえらさは、後になってじわじわわかってきた。
私は、卒業後も、毎年のように先生が出品されていた国画会展を見に行った。
毎回、先生は、私が見て歩くのにつきあって、私が勝手なことを言うのを、ふんふんと笑って聞いておられた。
ある年の国画会展で、梅を描いた古典的な日本画みたいな絵をほめたら、先生は非常に驚いた。
「キミ!こんな絵が好きなんか!?」
日ごろ感情の起伏を見せない先生だったから、こっちが驚いた。
また、ある年のこと、奥さんがごいっしょだった。
先生は、私に、しきりに絵を描きなさいと言われた。
なかなか描けなくて、というと、奥さんがニコニコ笑って、「主人だって、展覧会の直前にならないと描かないんですよ」と言われた。
先生は気まずそうであった。
先生の喜寿を祝う会で、先生と談笑していたら、「ボクは、キミのためにずいぶん男を下げとんやで」と言われた。
私が高校で落第したとき、色々迷惑をかけていたようだ。
知りませんでした。
先生の長い教員生活の中で、記憶に残る生徒であったことを誇りに思います。