私は、助手席の息子を見て、巨匠ビットリオ・デ・シーカ監督の名作「自転車泥棒」を思い出した。
戦後間もないイタリアで、貧しい男が切羽詰って自転車を盗んでしまう。
すぐに見つかって群衆に小突き回される。
ののしられる父に寄り添う幼い息子。
なんとか切り抜ける方法はないものか。
赤い金魚と黒い金魚を飲み込んで、どちらでも思いのままに吐き出して見せた伝説の芸人「人間ポンプ」なら、「ハーッ」と炭酸ガスだけ吐き出して、アルコールは出さないことも可能だろうが。
この期に及んでじたばたしても仕方がない。
潔くお縄を頂戴しよう。
ちょろっと息を吐いて、警官に「なんだ!もっと思いっきり!」なんて息子の前で言われるのは教育上良くない。
それに、大きく息を吸い込んだほうが、アルコール分が薄められるであろう。
覚悟を決めて、貧弱な胸も裂けよと、肺活量ぎりぎりまでふくらませて周囲の空気をガバ−ッと吸い込み、「ハーッ」と息を吐き出そうとしたその瞬間、信じられないことが起こった。
私に顔を近づけていた警官が、ひょいと横を向いて、私に向かって耳をつき出したのだ!
手を添えて。
ひそひそ話を聞くときのスタイルである。
この男いったい・・・?
一瞬目を疑ったが、このチャンスを逃してはならぬ!
私は、警官の耳に向けて思いっきり息を吐いた。
「ハア〜〜〜〜〜〜ッ!」
「ニューヨークのため息」といわれた往年の人気歌手、ヘレン・メリルを思わせるセクシーな自慢のハスキーボイスである。
人のよさそうな警官は、私のほうをむくとニコニコ笑いながら
「ハイ、結構です!」と言った。
私は車を動かした。
夜空には星が瞬いていた。
「♪いつくしみ深き 友なるイエスは・・・・」
私は賛美歌を口ずさみながら家路を急いだ。