「声に出して読みたい日本語」というような本がいろいろ出て、結構売れているらしい。
目の付け所がよろしい。
「あなたも名文を声に出して読んでみましょう」なんて言われると、簡単にできそうに思うではないか。
しかし、そう思うのは素人のあさはかさだ。
もちろん読むのは勝手だ。
読めばよろしい。
自分で聞いて、すぐいやになるであろう。
いくら名文でも、人が読み出したら、やめろと言いたくなるであろう。
誰に聞かせるわけでなくても「表現」だ。
これはむつかしい。
日頃ギターで痛感しているところだ。
「黙読」で、自分だけに聞こえる「内なる声」で読むのがよろしい。
どんな「良い声」も「名調子」も思いのままだ。
「読む」というのはそれほど簡単なことではない。
なめらかな、つまらない読み方もあるし、とつとつとした心に残る読み方もある。
桂文楽の「寝床」という落語は、義太夫好きの旦那さんが自分の語る義太夫を人にムリヤリ聞かせる話だ。
皆がまともに聞かないので怒る。
「義太夫なんてものは、名人と言われた人が書いた文章だ。読むだけでもありがたいのにそれに私が節をつけて語るのだ!」
「節がつくだけ情けない」
というようなやり取りがある。
逃げ出したくなるような語りもあるのだ。
子供が字をおぼえた時の読み方。
「む・・・・か・・・・・し・・・・む・・・か・・・・し」
本人も疲れるだろうが、聞いている方も疲れる。
昔ラジオで、ある大学の名誉教授の講演を聞いたことがある。
アナウンサーが紹介する。
「○○先生は、『枕草子』の研究では世界的な権威で、欧米の大学にも招かれて講義をなさっておられます。では先生、お願い致します」
「ただ今御紹介に預かりました○○でございます。何分研究というほどのことはようしておらないのでございますが・・・」
字で書くとわからんが、この先生のしゃべりは気の毒なほど軽かった。
子供を集めてゴム風船でも売りつけるつもりかというような声でありしゃべり方だ。
今朝、テレビに、「声に出して読みたい日本語」関係の本を何冊も出している先生が出演していた。
残念かつお気の毒ながら、この人も説得力の無い、軽い話し方だった。
先生に声を出さないようすすめたい。