若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

とんと

子供の頃、冬になると焚き火が楽しみだった。

私が住んでいた東大阪では焚き火のことを「とんと」と言った。
「とんと」て知ってました?
とんと知りませんでした?
そーですか。寒いですネ。

住宅地の道路の真ん中で焚き火をしたというのは、今となってはちょっと信じられない。
しかも私の記憶では子供だけでしたのである。
通りがかったおばさんに、「あんたら、気ぃつけなさいや」と言われたことがある。

小学五、六年生が指導した。
私は指導される立場だったことしかおぼえていないから、「とんと」は昭和三十年代にはできなくなっていたのだろう。

上級生から「燃料を取って来い!」と言われて、私たちは喜び勇んで木切れなどを集めて回った。
大きな木を持って来てくれるおとなもいた。

私は火を燃やすのが得意だった。
いつごろからか、家の風呂を沸かすのが私の役目だったからだ。

紙くずかごの紙くずと小さな木切れを入れて火をつける。
昔は「紙くず」が少なかったのでこの段階は結構苦労するのである。
今みたいに、新聞に大量のチラシが入っていれば楽だったのにと思う。

それから徐々に「まき」を入れていく。
いつごろからか「まき」が石炭になった。
順調にゴーゴー燃え出すとうれしいのであった。

近所の「ボクちゃん」の家はガス風呂だった。
当時の私にとって「ガス風呂」は想像を絶する超高級品であった。

私が通った中学では、日記を書かせて毎週提出させた。
中学二年のとき、私は風呂焚きのことを書いた。
担任のK先生の評に、「若草君が風呂焚きをしているとは意外です。感心しました」と書いてあった。
私も意外に思った。
風呂焚きは楽しみでやっていたのだ。

しかしK先生に感心されたのはうれしかった。
中年の男の先生で、なんだかわからんが尊敬していたからである。

もう一度だけ感心されたことがある。
先生が授業で蒙古軍の話をした。
「進軍の途中で水がなくなると、馬を殺して血を吸ったんです」
私は、「ちゅうちゅう」と吸う音を立てた。
先生は、「若草はそういうことは早いな」と感心した。
クラスの者が気づいていないのに先生が気づいてくれて私はうれしかった。