今日は木曜。
朝日新聞奈良版の「大和歌壇」の日だ。
「歌壇」だけでなく、「俳壇」も「柳壇」もいっしょに掲載されるのだが、家内が歌人妻だから「歌壇」を真っ先に読む。
今日、家内の歌が出ていたので、その自慢をしたいのはヤマヤマであるが、残念ながら、家内の歌の自慢をしている場合ではない。
緊急事態だ。
家内の歌の隣の作品にすいつけられてしまった。
「しなやかに身をそり返すイナバウアーをとめの姿しばしとどめよ」
一瞬、判断停止状態に陥ってしまった。
テレビの視聴者参加番組で、「○」と「×」の札を持たされて、「さあ!○か×か!どっちでしょう!?」と言われて迷っているときの感じだ。
念のために言っておきますが私の作品ではありませんよ。
河合町の井村亘さんの歌(?)です。
○か×か、迷うところだ。
初心者の他愛ない作品のようにも見える。
しかし、そう軽く読み捨てにできないものを感じる。
「言葉の調べ」の心地よさ、形式的精神主義とは無縁の格調の高さ、こういう、「やまとうた」の美点が自ずから生かされていると思うのである。
短歌が趣味のお年寄りが、こたつでテレビの荒川選手を見ながら、正月に孫とした百人一首を思い浮かべつつ作ったような気もする。
しかし、ひょっとすると作者は奈良国文学会の長老で、長年和泉式部の研究に打ち込むかたわら、若いころから短歌作りに励んできた方で、万葉、古今、新古今は言うに及ばずあらゆる歌集、歌論を読み、90歳を越えて初めて到達しえた枯淡の境地において、銀盤に舞う荒川選手の優美な姿に心を打たれ、思いはおのずと僧正遍照が五節の舞の美しい舞い姫たちを詠んだ歌におよび、そぞろ歌心を催し何の巧みもなく口をついて出たのがこの歌なのかもしれない。
この歌をどう評価するのか。
鑑賞者の文学的素養が厳しく問われる作品だと言える。