べっぴんさんであった。
べっぴんさんとは、かしこさと力強さを感じさせる女性である。
これまでいろんな人の講演を聞いたが、金メダル候補だ。
「私は、皆さんにこれを伝えたいのです!」という気合に満ちていた。
走るより話すほうが向いているのではないか。
たとえば、陸上部の先生に訴える場面。
「先生!ど〜〜〜しても、走りたいんですっ!」
この「ど〜〜〜しても」で、彼女はまゆを寄せ口をゆがめこぶしを握り締め身体をよじって腹の底からうなる。
有森裕子というより都はるみだ。
お兄さんがいるそうだ。
「兄は何でもよくできて、パーフェクトな人でした」
私の妹みたいなことを言うではないか。
それに比べて自分は何もできない、欠点だらけだと、小学校の体操の先生に訴えた。
先生は、「その欠点すべてを含めてこの世にたった一人のお前なんだ」と言ってくれる。
その言葉に感激して、先生が顧問をしていた陸上部に入った。
走るのが好きで入ったわけではない。
何か一つ自分なりのものが欲しい。
小学生のクセに生意気なことを考えたものだ。
中学ではバスケットボール部に入った。
体育大会で、三学年クラス対抗800メートル走があり、三年間一位だった。
高校に入学、勇んで陸上部に入ろうとしたら、素人はいらんと断られた。
中学の有力選手を集めた名門校だったのである。
体育大会の一等など問題外だ。
彼女は一ヶ月粘る。
「先生!ど〜しても」と、うなったからかどうかは知らんが何とか入部を認められた。
しかし、成績は上がらず、恥ずかしながら第三推薦で大学に入る。
大学でも記録は伸びず、先生になろうと決心したときたまたまいい記録が出た、というだけで、実業団で走りたい!と思う。
実績がないのでどこからも声はかからない。
陸上部を作ったばかりのリクルートの小出監督に売り込みに行く。
監督は、彼女が国体にもインターハイにも出たことがないと聞いてあきれるが、熱意を買って採用してくれた。
熱意一本で進んだ無名時代の有森裕子物語であった。
お父さんが自宅の前に「有森裕子ミュージアム」を作ったそうだ。
メダルなどが展示してある。
有森さんによれば、ぜひ行って欲しいが、「父につかまるとしゃべりまくって放さないので、時間に余裕のあるときにしてください」とのことです。
お父さんは、「親ばかオリンピック」のメダル候補だ。