昨日の朝も、県会議員のTさんが市会議員のYさんと共に駅前で演説していた。水曜だけだったのに、最近いやに気合が入っている。
「皆様のあたたかい御支援をいただきまして、こうして毎朝各駅の駅頭に立ちまして、ごあいさつ申し上げるようになって早や九年、回数にして二千回を数えようとしております」
えらい!九年ですか。なかなか続かんもんですよ。
たまに他の議員さんの姿も見ますが、まあ一、二回です。
朝のジョギング、ウォーキングもそう。何日か姿を見て、お、この人はよく続くな、と思ったら次の日から見ない。続けるのは本当に大変だ。徒労だと思うこともあるだろうし、よほどの克己心、信念が必要だ。
たいして中味のない演説でも、続けているというだけで尊敬に値する。ましてや、三年以上ほぼ毎日千字近くの日記を書くということがどれだけ大変かわかっとるんか!ぼーっと読んどったらあかんで!
何の話か。
Tさんだ。
二千回に向けてがんばってほしい。
代行業で思い出したのが「代読」だ。これは、小学生の私を悩ませた。
小学校の式典などで、「市長祝辞」。小学生にとって市長さんは雲の上の人だ。当時の布施市長鈴木義仲さんは、私の人生で最大の政治家だ。「えらい人」という記憶しかない。
その市長さんの祝辞!壇上にいかにもえらそうなおじさんが上って祝辞を述べる。
さすが市長さん!堂々たる演説だ。
「・・・昭和31年6月20日。布施市長鈴木義仲。だいどく」
「だいどく」?
なんじゃそれは。
母に聞いたら、それは市長さんではなくて、かわりの人が読んだのだと言う。あのおじさんも充分えらそうに見えた。あのおじさんの名前でいいではないか。今もそう思う。
五来重著『日本人の仏教史』
代行の代表的なのが「代参」ですね。かわりにお参りしてもらう。それでいいのか?身体の不自由な人のかわりにお参りしてあげるのはいいことのように思う。
平安時代、お堂にこもって夢で仏様のお告げを受けることがはやった。七日、十四日とこもって夜も寝ずに拝んでいると夢かうつつか観音様が現れて、というやつである。
「夢のお告げ代行業」というのがあったそうだ。
かわりに夢を見てもらう。
プラモデル製作代行なんてかわいいもんだ。
平成より平安時代の方が進んでる。