きらいな言い方である。
角川書店の雑誌『短歌』の特集が、「老い」なのはいいけれど、いきなり、「現代短歌における老いとは何か」とくると、かっくんとくる。
そこへいくと、朝日新聞社の雑誌『俳句朝日』の特集はよろしい。
「琵琶湖吟行:足して千歳」
「千歳」と言われると一瞬驚くが、70代か80代の方が十数人、仲良く琵琶湖へ行って俳句をひねると思えば、驚くほどのことではない。
角川短歌のほうは、「老い」を詠もうというのであろうし、俳句朝日のほうは、「老い」が詠むのだ。
読者にとっては、「老い」を読んであるほうがわかりやすい。
「調子が悪くて医者に行ったのに、トシですなと言われて帰った」というような作品である。
「老い」が詠むのはむつかしいと思う。
「老い」については書かず、詠んでる人のトシを感じさせる。
俳句や短歌では、孫を題材にしてはいけないそうだ。
別にいいではないかと思うのは素人の浅はかさである。
孫を題材にした実例をいくつか見ると、なるほど!と思う。
やめろとは言わないが、やめたほがよろしい。
「短歌における孫とは何か」を特集してほしい。
「老後の楽しみ」という言い方がある。
十数年前、70代の女性と話していたら、その方が、「老後の楽しみなんてないですよ!」と激しく言った。
その方は手芸が好きだったけれど、何かと忙しいので老後の楽しみにと思っていた。
ところが、いざと思った時には、目は見えにくい、手先は動かない、肩はこる。
「若いうちですよ!」
その切実な声に促されて、私はエレキギターを習い始めた、わけではありません。