若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

木下孝則2

「木下孝則展図録」によれば、彼は、明治27年、法律家で、後に明治大学総長となった、木下友三郎の長男として生まれ、裕福な家庭で育った。

12歳のころから西洋美術に親しみ、16歳で病気療養中、母親が油絵の道具を買い与えた。病気が治ったころ、一年間看病してくれた看護婦をモデルに、裸婦像を製作した。

え、え〜〜っ!
いきなり裸婦!すすんでますね。

京大法学部に進むが、御茶屋に入りびたりであった。
すすんでます。

しゃーないやっちゃなー、ということで呼び戻され、しかたなく東大に行く。ここも、どこに入りびたっていたのか、退学となり、ぶらぶらしながら絵を描いて、27歳の時、二科展に出品したら入選したので、親からのごほうびとして、フランスに行かせてもらう。
すすんでるどころではなく、うらやましいような、腹立つような、若き日々である。

若き日々、彼は、前衛的美術と闘う。きらいだったんですね。
穏健な写実の旗手として闘ってるうちに、日本は戦争への道をすすむ。
彼は、戦争画を描かなかったようで、苦しい時代だっただろう。

やっと戦争が終わったと思ったら、アメリカやヨーロッパから、だいきらいな「前衛美術」がなだれ込んできた。穏健な写実など、吹っ飛ばされてしまった。時代遅れの隠居仕事みたいな扱いだったと思う。
終戦の年が51歳だから、非常にきびしい状況だ。元気のいい若いもんは、前衛の方に行ってしまう。そんななかでも、穏健な写実一筋である。

娘さんたちの話では、勤勉に絵を描き続けている。
早朝、庭のバラなどを描く。モデルがやって来て、それを描く。次に、ヌードのモデルが来て、描く。そしてまた、着衣のモデルを描く。
これが日課だった。それだけ頑張っても、美術の世界で、まともに扱ってもらえなかった。ほめてくれるのは、素人とお弟子さんだけ、という感じだったのではないか。
時代が悪かった。

これだけうじうじと考えさせる展覧会も、珍しいと思う。