日本アパートがどんな建物だったかというと、廃校寸前のなつかしの木造校舎という感じであった。
私がいた東館は、四畳半ばかりで、住んでいるのは独り者、テレビを持ってる人なんかいなかったから、夜は静かなものだった。
私が四年のとき、美術部の新入生が下宿にテレビを持ってきたというので評判になった時代である。
静かなアパートに、時々歌声が響き渡る。
私の部屋の斜め向かいのおじいさんが歌うのだ。
「♪インドネ〜シアの〜、陽はカ〜ンカ〜ン」という歌だ。
ある時、おじいさんの部屋のドアが開いていて、一升瓶が散乱しているのが見えて驚いたことがある。
このおじいさん以外の住民のことはまったく覚えていないから、歌も歌っておくもんですね。
アパートには共同「便所」があった。
「トイレ」ではなく「便所」です。
この「便所」に備えられていた「紙」がすごかった。
もちろん、ティッシュペーパーではなく、ちり紙だといいたいが、「ちり」なんてものじゃなく「ごわ紙」だった。
よくこんな紙があるもんだと、当時も感心したほどの紙である。
どす黒くて波打っていた。
伝統の手漉き和紙、というようなものではないが、かといって、機械で作れるようにも思えなかった。
新聞紙を一年ほど外に置いて、雨に打たせて天日乾燥してを繰り返したら、あんな紙ができるのではなかろうか。
日本アパートの「便所」についてはいろいろ書くことがあるが、家内に怒られるのでやめときます。
東館と西館の間に、共同洗濯場があった。
大きなたらいと、洗濯板が備えられていた。
入居者のための設備の行き届いたアパートだと、昭和初期には評判だったのではなかろうか。
私の洗濯なんかしれていたが、それでも冬はつらかった。
西館で家族で暮らしていた奥さんたちは大変だったと思う。
奥さんたちは、冬は大きなやかんに湯を沸かして洗濯場に持ってきていた。
たまにこういう奥さんたちといっしょになることがあると、「学生さん、お湯あげよ」といって、私のたらいに入れてくれた。
「今日はラッキー!」
お湯の温かさと人の情けの温かさにしみじみしながらせっせと洗濯する鹿之助であった。