『バーナード・ホール:忘れられた芸術家』を読み終わりました。
日本でいえば、明治30年くらいにイギリスからオーストラリアに渡り、40年の長きにわたってメルボルン美術館長と付属美術学校の教師を務めた人です。
「オーストラリア近代美術の父」という感じだと思いますが、苦闘の一生でしたね。
美術館長として作品を選んで買うんですが、決定権は購入委員会にある。
意見が合わない。
芸術家として固い信念があるんですが、固い信念があると敵が多くなる。
この人の立場は、明治日本の「お雇い外国人」で、(イギリス人がオーストラリアに雇われるんだから、「お雇い本国人」ですが)、身分は安定しないし、給料も40年間で一度上がっただけです。
それでも猛烈に働いた。
働いたけど、待遇は恵まれなかった。
最愛の奥さんを亡くした後、またすばらしい女性と出会って、子供にも恵まれ良い家庭を築いたのが救いです。
四人の子どもたちは、旅行や学業で家を離れたときは、頻繁に親に手紙を書いたというのを読むとほのぼのとしますが、ほとんどは「カネ送れ」だったというのを読むとカックンとなる。
75歳の時、最後のご奉公という感じで、イギリスへ作品買い付けの旅に出る。
そして、ロンドン滞在中に体調を崩して亡くなります。
火葬されたんです。
イギリスは土葬だと思ってましたが。
彼といっしょに買い付けに行ってた美術館関係者は、火葬の手配をしただけで、あとは買い付けに一生懸命で、「遺灰」は葬儀会社に預けっぱなしになってしまった。
とんでもない話ですね。
当時、オーストラリアからイギリスへ気軽に行けるわけじゃないので、奥さんは困ってしまった。
とにかく奥さんにはカネがなかった。
何とかしてほしいと美術館側に泣きついたけど、1年ほどしてから、「持って帰るのはカネがかかるから、ロンドンで埋葬しましょう」という返事がきた。
美術館が用意したのは、安物の棺と小さな墓地だった。
いくら何でもひどすぎるんじゃないですか。
教え子もたくさんいるし、友人も多いのに、なんとかならんかったのか。
いっぺんにオーストラリアが嫌いになってしまった。
さて、40年間同じ地位にいると、敵というかライバルというか、そういう人間が増えるのはしかたない。
彼が死ぬとすぐ、「バーナード・ホールは古臭い人間で、古臭い趣味と古臭い教育で、オーストラリア美術をダメにした!」みたいなキャンペーンが行われたようです。
で、一気に忘れ去られた。
いや、葬り去られたのか。
夫の受けた仕打ちを奥さんは許せなかった。
いつの日かきっと再評価してもらえると信じて、苦しい生活の中、膨大な資料を集めて保存した。
その資料をもとに書かれたのがこの本です。
死後80年もたってから、はるか日本でバーナード・ホールさんの冥福を祈る男がいると知ったら、ホールさんも奥さんもびっくりするでしょうな。