若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

私の好きな写真

母がいる施設に行った。

目の前の、無言無表情の母は、私の母であるようなないような、なんだか困惑させられる存在だ。
ふと部屋の壁を見ると、施設の人が張ってくれたのだろう、十年ほど前の入居したころの母の写真があった。
この写真は、「母だ」と思う。
まだ「私の母である」と思える部分が残っていて、それが写真でもわかる。

写真の良いところは、「ニコニコ顔」や「改まった姿」を撮る、つまり「いいとこ撮り」であることだ。
金に困って相談してるところや、病気で苦しんでいるところを、「じゃ、一枚」ということはない。

私が一番好きな写真は、伯母夫婦の写真だ。
父の姉である伯母には子供がなく、私が看取ることになった。
伯母の家を整理しているとき、箱に入った写真を見つけた。
見ているうちに、どういうわけか、手元に置いておきたい!という気持ちになって、アルバムを作った。

伯母は、戦後すぐ40歳を過ぎて結婚した。
職業婦人であった妹との二人暮しが、経済的に成り立たなくなったのだろう。
伯父となった人は、子供の私から見ても変わっていた。
「世捨て人」という感じだった。
伯父の死後知ったのだが、伯父は終戦直前に、奥さんを亡くし、二人の息子の一人は戦死、一人は戦病死で亡くしていた。
「世捨て人」になるはずだ。

教師であった伯父はすぐ退職したので、「恩給」生活の新婚家庭ができたのだ。
貧しかったはずだ。
しかし、私の記憶にも、写真にも、伯母たちの暮らしには貧しさのかけらもない。
伯父が「世捨て人」みたいであったことと、伯母が徹底的に明るかったことによるのだろう。

伯母は、賢明な明治の女性であったが、朗らかで気が大きかった。
亡くなる直前、寝たきりに近くなったとき、伯母が古い14インチのテレビを見ているので、買い換えるよう勧めた。
近所の電気屋さんに伯母の家に行ってもらって注文を聞いてもらったら、伯母はなんと当時百数十万円の壁掛けテレビを注文したのであった。
何とか普通のテレビでおさまったので良かった。

私が一番好きなのは、伯母が55歳、我が家の墓地のある信貴山での写真だ。
さわやかな風に吹かれて、伯母が、「人生はよろしい!大変よろしい!」と言っているようだ。

写真を直接出す方法がわからないので、
http://www16.ocn.ne.jp/~fobasan/
この日記の、昭和36年6月11日を見てください。