小野妹子が607年に隋に持参した国書のことを知ったのは小学四年のときだ。
担任の高橋先生が、どういうつもりだったのか、ある日突然、日本史というか日本神話というか、そういう話をはじめた。
そういえば、先生は、「戦前の子は落書きをしなかった」とか、「戦前は、この学校の廊下はピッカピカだった」とか言ってたな。
精神教育のつもりだったのかもしれん。
雲の上で神様が粘土をこねていて、ぽとりと海に落ちたのが淡路島になった、と先生が話すのを聞いて、どうして先生はそんなことを知っているのだろうかと不思議に思った。自分がまったく知らないとんでもない世界があると感じた。他の授業とは違う緊張感があった。先生の「気合」だったのだろうか。
この日本で「大化の改新」という恐ろしい事件があったことも聞いた。
そして、出ました!
「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」
かっこいいと思ったし、えらそうやな〜、と思った。
「つつがなきや」がえらそうに思えたのだが、日本語で書けば、「おかわりございませんか」、あるいは「貴下ますますご清栄の段大慶に存じます」になるので、別にえらそうにしたわけではないだろう。
吉田孝『日本の誕生』
平安朝では、朝廷で博士による「講義」が行われたそうだ。博士が『日本書紀』について講義する。講義録が残っているそうだ。
「遣隋使小野妹子が、このような国書を渡したのであります」
生徒である貴族が質問する。
「先生、『日出づるところ』って言い方、おかしいと思います。我が国から日が出るわけではないですよね」
「藤原君(仮名)、それはいいところに気づきましたね。たしかにお日様は東の海のかなたから出ます。我が国から見れば、『日出づるところ』は東の海の向こうです。しかし、唐から見ると、我が国が『日出づるところ』になりますね」
「そうすると、『日出づるところ』って、我が国が名乗ったんじゃなくて、唐が名づけたんですか」
「そうです」
平安時代の博士は全然わかっていなかったようだ。
藤原君のつっこみは、なかなか鋭い。
「日出づるところ」を東といい、「没するところ」を西というと、仏典『大智度論』に出ているそうです。
そのあたりも含めて、博士も藤原君も、日本の歴史がわかっていなかったようだ。
平安と平成は似てます。