若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

心残り

母が入居していた施設のことが、何となく心に引っかかったままだ。
「長年お世話になりました」と礼を言って、それでおしまいのはずだが、それではすまないような気がする。

母は亡くなりましたが、長年お世話になった感謝の気持ちをこめて、これからも毎月カネを振り込ませてもらいますというような殊勝な気持ちはさらさらないのであるが、借りがあるような気分である。

何しろ14年ほど通ったから、入居者の皆さんやスタッフの方たちともなじんでしまって、そう簡単に「さようなら」というわけにはいかないのだろう。
深入りしすぎて不適切な関係になった、という感じだ。
女性入居者たちから、「にいちゃん」と呼ばれて気をよくしていたということも影響しているかもしれない。

母とは、早くに会話が成り立たなくなったので、それからは、母に面会に行くというより、他の入居者たちとのおしゃべりを楽しみに行くような感じだった。

入居者たちとの会話はスリルもあった。
突然、「あんた、裏のおばあさんの葬式、香典いくら包んだの?」などと聞かれることがあるのだ。
頭脳明晰、打てば響くといわれる私が、答に窮する場面も再三であった。

一番仲良くなったのはMさんだ。
Mさんは、毎年の農繁期には、石川県から大勢の手伝いがやってくる、大きな農家の娘さんだった。
ほんとの話だとは思いますが、保証はしませんよ。

屋敷には、味噌やしょうゆの大きな樽が並んだ部屋があった。
もちを詰め込んだたくさんの袋を、ねずみに食べられないよう、天井からぶら下げてあった。
なんでも自家製で、買うのは、酒と塩と砂糖くらいだった。
「百姓はなんでもあるねん。ないのはカネだけ」
鶏をたくさん飼っていて、そのうちの茶色い一羽がMさんの鶏で、卵を産むと売って、それが小遣いになった。

楽しい話を聞かせてくれたMさんだったが、仲のいい入居者のHさんが亡くなると急速に衰えて、話もあまりできなくなった。

そんなMさんの相手をしていたある日、私が帰るといったら、珍しくMさんが見送るという。
職員さんが車椅子を押して、入り口へ向かっていたら、突然Mさんが泣き出した。

「にいちゃん!はよいんで(早く帰れ)!はよいんで!つらい!つらい!」

この施設で、奇妙な形ではあるが、人間の深いところにあるものに触れることができたので、さようならではすまないのだろう。