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長谷川慶太郎『日本は「掃き溜めの鶴」になる』
長谷川慶太郎さんは、たくさんの本を書いている。
読んだことはないけど、だいたい「これでいいのだ!」系が多いように思う。
現代の経済とか、政治、社会の問題を扱った本には、「これでいいのだ!」系と、「こんなことではダメだ!」系がある。
「これでいいのか悪いのかわかりません」系もあっていいのではないかと思う。
それなら私にも書けるが、売れんでしょうな。
長谷川さんは、「これでいいのだ!」一筋で生きてきたのではないかと思うが、それはどうでもよろしい。
「掃き溜めの鶴」です。
私にとって、「掃き溜めに鶴」というのは、かなり問題のある言葉だ。
「掃き溜めに鶴」という言葉を知ったのはいつだろうか。
「きったないなー」と思った。
その場に不似合いな、立派なものがある、というふうには思わなかった。
イメージとして、きたない。
「掃き溜めに鶴!」
「きったないなー!」
「掃き溜め」というのがきたなすぎる。
「掃き溜め」という「場」があったのだろうか。
ゴミ捨て場、とかゴミ置き場ということだろうか。
「掃き溜め」という語感がきたならしい。
「掃き溜めに鶴」といわれて、「掃き溜め」に鶴がすっくと立っている姿を想像できない。
足の踏み場もない汚さに、鶴が困惑して、足を上げたりおろしたりしている場面を想像してしまう。
私にとって、「掃き溜めに鶴」というのは、不潔な環境で鶴が困ってるイメージだ。
長谷川さんのせっかくの新著も、私には、ぱっとしない本に思えてしまう。
『日本は「掃き溜めの鶴」になる』
なっては困る!
長谷川さんには悪いが、そう思う。
わが日本が、きったないところで途方にくれている姿が目に浮かぶのだ。
これは、長谷川さんの責任ではなくて、ヘンなイメージを抱いてしまった私の責任です。