日本が西洋画に目覚めた夜明けのころの話である。
私も、日本洋画の夜明けをはるかに過ぎた丑三つ時にうごめく男として、また、日本洋画壇の端くれの最果ての先っちょにかろうじてぶら下がる男として、読まなくてはならないでしょう。
日本西洋画の先駆者といえば、司馬江漢ということになってますが、彼に先立ち、1770年代に西洋画的な絵を描いた人たちがいるんですね。
秋田藩主佐竹曙山と秋田藩士小田野直武を中心とするグループです。
このころ、秋田藩の財政は完全に破たんしてたようです。
どれくらいひどかったかというと、参勤交代の費用がなくて、幕府に泣き付いて延期させてもらうほどひどかった。
そんなことできたんか。
当時は、どこの藩も、どころじゃなく徳川家も火の車だったというんですが、それでよく明治までもちましたね。
さて、秋田藩の財政破たんと西洋画と関係あるのか。
あるんですな。
財政立て直しのため、秋田の銅山をなんとかしようと考えて、平賀源内を招くんです。
この人はホントに多彩な人だったようで、科学技術はもちろん西洋画のことも詳しくて、絵の得意な秋田藩士小田野直武に教えてやった。
伝説では、源内は直武に鏡餅を真上から見たところを描かせて、これでは盆かただの輪かわからない、西洋画なら立体的に描けるのだと教えたことになってます。
藩主の佐竹曙山も絵を描くのが好きだったので、西洋画のファンになったというわけです。
この「西洋画」は、油絵具を使ったのではなく、日本画の絵の具で、陰影をつけたり遠近法を使ったりしたもので、「秋田蘭画」と呼ばれることもあるようです。
著者の平福百穂(ひゃくすい)は秋田の人で、子供のころから佐竹曙山の絵をとんでもなく有難いものとして何度も拝んだことがあるんです。
そんな縁もあって、この方面を研究して昭和の初めにこの本をまとめてます。
さて、佐竹曙山は絵画論を残してます。
彼にとっては、「絵」というのは、図鑑の絵が理想だったようです。
あるモノを知らない人に教えるための絵。
だから、本物そっくりな絵が最高である。
ココロを描くなどと言ってるのは馬鹿者である。
絵巻物などの家を見ろ!
屋根も天井も描いてない。
あんな絵を西洋人が見たら、日本の家には天井も屋根もないと思ってしまう。
ダメだ!
雲を金色に描くなんてばっかじゃなかろうか!
まあ、短絡的というか、思い込みが激しいというか、困った殿様だったんじゃないでしょうか。
かなり困った殿様だったと思いますよ。
だって、治世二十八年の間に、家老を三十数人クビにしてるんです。
二十八年で三十数人クビとは・・・。
それも「御叱御免」がほとんどだった。
「ばっかも〜ん!お前なんかクビじゃ〜!」を三十何回。
どんな殿様じゃ。
絵なんかどうでもいい!
こっちの方を知りたいと思ったのであった。