イギリスの競馬騎手A.P.マッコイの自伝を読んでます。
各章が思い出のレースにまつわる話です。
初勝利とか最多勝達成とか。
その中で、記録には何の関係もない、賞金もたいしたことないし、注目の馬に乗ったわけでもなく、終わったら誰もがすぐに忘れるようなレースについて書いてます。
そのレースはマッコイの騎手生活の中で忘れることができない特別のレースだった。
親になって初めてのレースだったんです。
前の日生まれた女の子は夫婦にとって待ちに待った奇跡の子であった。
マッコイに原因があって自然な妊娠が難しく、奥さんは大変な苦労をしたし、生まれるまでもいろいろ大変で、「自然に授かった」という子じゃなかった。
「この子を授かるまでのことを振り返ってみよう。私が家内と出会ったのは競馬場の控室で、一目見た瞬間衝撃が走り・・・」
いかに衝撃がすごかったか、あとはおのろけ全開です。よくこれだけほめちぎれるもんだとあきれます。
結婚した後は、すばらしい妻ですばらしい母ですばらしい秘書ですばらしい企業家である。
え~かげんにせ~よと言いたい。
さて、待望の赤ん坊を見た時、ものすごい責任が降りかかったと思った。
レースは特になんということはなくふつうに勝つんですが、一生忘れることができないレースになった。
その子が歩き出したころ、足に障害があることがわかって手術を受けることになった。
大きな病院で、まず麻酔の先生が現われた。
マッコイとは顔なじみの先生だった。
なんたって落馬千回、イギリス中の麻酔の先生たちとは顔なじみだと豪語してます。
ファーストネームで呼び合う仲というんですが、う~ん・・・。
さて、二人目の子供がほしいとなって、また一苦労してます。
そして男の子が生まれた。
喜んだのもつかの間、気管支に障害が見つかって生後4か月で手術ということになった。
手術を担当する経験豊かなビクター先生の説明を聞いて夫婦は安心した。
しかし当日になると安心どころではなかった。
手術室に入って行く赤ん坊を見送ると病院にいたたまれず夫婦で近くの教会に行って祈ることにした。
病院を出てよろめく妻を抱きかかえるように歩き始めたマッコイは向こうから男が歩いてくるのに気づいた。
なんだか見たことのある顔だが、コンビニの袋を持ってケータイでなにやらしゃべりながらふらふらやってくる。
だれだったかなあ・・・・え!ま、ま、まさか!・・・ビクター先生!
息子は手術室に入って行ったところじゃないか、先生がふらふらとコンビニの袋を持ってケータイで・・・?
とっさに奥さんの肩を抱いて道を渡った。
振り返るとビクター先生は病院に入って行った。
教会で祈りをささげて病院に戻った。
手術室に入って4時間後、手術は終わってビクター先生がやってきた。
「すべて順調に行きました。息子さんはだいじょうぶですよ」
全身の力が抜ける思いで先生の手を握り「ありがとうございました!」と叫んだ。
叫んでから、「で、先生、ひとつお尋ねしたいんですが、先生は息子が手術室に入ってからコンビニに行かれてたんですか」
先生はにっこり笑った。
「マッコイさん、私も昼は食べないとね。息子さんの4時間の手術、腹ペコでというわけに行かんでしょう。毎日毎日子供の手術です。うまくいかなかったときは何日も眠れませんが、これが私の毎日の仕事なんです。」
騎手として神経のすり減る毎日のマッコイは心から納得したようです。