アメリカの軍人陸軍大将ルシアス・クレイ(1898~1978)の伝記です。
クレイは第二次大戦後のドイツ占領のアメリカ軍最高責任者だった人で日本のマッカーサーみたいな存在です。
父親のアレキサンダー・クレイは極貧の家庭に生まれ苦学して弁護士になって政治家を志した。
有能で清廉潔白公明正大、貧しい労働者農民のために働いた。
州議会議員から上院議員になって、意見を異にする議員からも尊敬されるような有力議員として時の大統領セオドア・ルーズベルトから絶大な信頼を得たが57歳で亡くなった。
彼の葬儀は地元の会社や商店が休業して5千人の市民が参列、のちに市民の寄付で銅像が建てられた。
いかに立派な人だったかわかる。
アレキサンダー・クレイには5人の息子と1人の娘がいた。
末っ子のルシアス・クレイ以外は全員ろくでもない生き方をしてろくでもない死に方をした、というのが不思議です。
ルシアス・クレイは陸軍士官学校に入って卒業後工兵隊に配属された。
工兵隊というと道路を作ったり橋をかけたりする部隊で、裏方という感じですがアメリカでは花形部隊だそうです。
独立戦争以来の伝統を誇り陸軍士官学校の成績優秀者が配属されるエリート部隊なんです。
受け持つのは軍隊の仕事だけではなく、アメリカ合衆国の道路、港湾、ダムの建設から河川改修、洪水被害の救援と復興までというんですから日本で言えば建設省の役割も兼ねてる感じかな。
工兵隊は巨額の予算を握り、議会対策地元対策から実業界との交渉、設計施工までありとあらゆる仕事をこなさなければならなかった。
ルシアス・クレイもダム建設の責任者、ミシシッピ河大洪水の救援復興活動で大活躍、工兵隊を代表する有能な若手将校として名前を知られるようになる。
第二次大戦前、アメリカにはまともな空港が四十ほどしかなかった。
フランクリン・ルーズベルト大統領は2年間で400の空港を作ることを決定するとその責任者としてルシアス・クレイが指名しされた。
現在のアメリカの空港はほとんどクレイが計画したものだそうです。
第二次大戦中はアメリカの軍需品、民生品生産調整という極めて困難な仕事の最高責任者に任命された。
滅私奉公尽忠報国、超人的働きで職務を全うして称賛を浴びた。
口癖は「私は軍人だ。命令されたことを実行するだけだ」
軍人の鑑です。
著者によればルシアス・クレイが仕事に私情を持ち込んだことが一度だけある。
クレイの息子は二人とも軍人になって、一人は第二次大戦中アフリカ戦線で戦っていた。
クレイがアフリカ戦線視察に出ることになった時奥さんが息子の顔を見てきてくれと頼んだ。
クレイにとって奥さんの言葉は大統領の言葉以上の重みがあった。
視察旅行の途中、息子の部隊に行きたいと頼みこんで飛行機を出してもらった。
息子の部隊がいると思った所についたら出発した後だった。
また飛行機を出してもらってたどりついたらまた部隊は出発した後だった。
ここであきらめたら帰ったら家に入れてもらえない。
泣きついて車を出してもらって追っかけてようやく息子に会うことができた。
軍人の鑑であると同時に夫の鑑である。
というか単なる恐妻家かもしれない。