「チリ紙」が消えていつの間にか「ティッシュペーパー」になったんですが同じように私の子供時代に消えて行ったものがあります。
いろんな「行商人」が消えて行った。
「金魚売」というのがあったのかどうか自信がないんですが売り声だけおぼえてる。
「金魚~え~金魚!」という声だけかすかに頭に残ってる。
売り歩いてる姿は記憶にありません。
「らお屋」というのもぼんやりした記憶で、キセルの修理業ですがこれは売り声じゃなくて機械が発する「ピー」という音だけおぼえてる。
「らお屋」という名前もおぼえてるんだから当時は普通の商売だったんでしょう。
傘の修繕も回ってきた。
「傘修繕。こうもり傘の張替え」と大きな声で言うんですが、「かあさ~~~しゅうぜん!こ~~~もりがさの~~~はりかえ!」と節をつけて言う。
当時の私にとって傘と言えばこうもり傘(洋傘)だったけど和傘も生きてたんですかね。
刃物の研屋さんとか鍋釜の修理とかも回ってきた。
変わり種ですが「がたろ(河太郎?)」というのが時々現れて近所の川で金属を集めてた。
こういう「行商」は「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年までに消えて行ったんだと思います。
お茶はだいぶあとまで「お茶屋のおばさん」がかついでくるのを買ってました。
豆腐は小柄なおじいさんが自転車で売りに来た。
チリンチリンと鐘を鳴らして「豆腐!おやきにこんにゃく!うすあげにあつあげ!」というのが売り声でした。
冬におじいさんが豆腐を水から取り出すのを見て「つめたいやろなあ」と思いました。
長年来てたおじいさんが亡くなったと聞いて母が「あの人も働きづめの一生やったねえ」と言ったのが私が人生の厳しさに初めて触れたときですね。
屑屋のおばあさんも時々来てた。
母は何を出してたんでしょうか。
モンペ姿のおばあさんがリヤカーを引いて帰った後で母が「あの人はえらい人や」と感心してたことがある。
苦労話を聞いたみたい。
苦労のかいあって息子と娘は小学校の先生になった。
その二人が屑屋をやめてくれという。
恥ずかしいというのでしかりつけた。
この商売のおかげで一人前にしてもらったくせに恥ずかしいとは罰が当たる!
母がしきりにあの人はえらいというのであのおばあさんはえらいんだと思ってました。