朝のバス停。
70代と思える夫婦がベンチでバスを待っている。
旅行かばんを持って、バスの来るほうを首を伸ばして見ている。
ほほえましい。
バスが来た。
私は、夫婦に続いて乗り込んだ。
このバスはすいている。
席もほとんどあいている。
二人仲良く並んで座ると思ったら、奥さんが一人がけのいすに座った。
ご主人は、奥さんの前か後ろに座るだろうと思ったら、二つ後ろの席に座った。
私はお二人に、なぜそんな座り方をするのか聞こうかと思ったが、やめた。
中国で行われているサッカーの試合での「反日ブーイング」に、日本政府が中国政府に抗議したらしい。
サッカーというのは本来そういうおぞましいものではないんですか。
昔から、サッカーの応援が過熱して、死者が出たり、軍隊が出動したりするという話だったではないか。
私は、ヨーロッパや中南米の人間は程度が悪いとあきれていた。
しかし、テレビでワールドカップを見て、サッカーそのものが程度が悪いのではないかと思った。
反則場面をテレビで繰り返し見るのは良い修行になる。
人間とは、あさましい醜いものだと悟らせてくれる。
生きていくのは辛いことだと教えてくれる。
仏教に、「不浄観」という修行があるそうだ。
肉体への執着を断つための修行で、死体を見つめ続けるのだ。
美しかった肉体が、生命を失い、醜く変化していくさまを何日もにわたって見つめ続ける。
サッカーを見るのも一種の「不浄観」だ。
人間の愚かさと醜さを思い知る良い機会であるのだが、競技場で騒ぐ観衆も、それに抗議する政治家も、縁なき衆生は度し難し。
蝉がたくさん死んでいる。
蝉の死体は「不浄観」の対象には不適当だ。
死んでもぜんぜん変わらない。
道に落ちていても、生きているか死んでいるか分からない。
私は蝉の死体が好きだ。
からっとしている。
私は蝉の生き方も好きだ。
「ほっといてちょーだい」という感じだ。
土の中に長くいるだけでもえらいと思う。
誰にも迷惑をかけたくないのだろう。
出てきても、木にとまって樹液を吸うだけだ。
蝉に吸われて木が枯れるという話も聞かない。
精一杯鳴いている。
いい声とは言えない。
しかし、うるさい!あっち行け!という気にはならない。
自分のしたいようにして、誰にも文句を言われず、ころっと死んでいく。
理想的だ。