バスの座席で、野上弥生子の「迷路」を読んでいた。
「我輩は猫である」と「迷路」は繰り返し読んでいる。
何度読んでもそのたびに新鮮な感銘を受けるのは、私がすぐ忘れるからだろうか。
「迷路」こそ、日本の小説の中の、名作中の名作である!と声を大にして叫びたいが、私は名作と言われる小説をあまり読んでいないので、いくら叫んだところで値打ちが無いからやめておこう。
バスの座席は、長いベンチ式であった。
隣に誰か座ったが、「迷路」に集中する。
読んでいると、本を持つ私の腕に何かが触った。
隣の人の荷物だろう。
気にせず読みつづける。
また触った。
気にしない。
また触った。
なんじゃ。
ひょいと本から目を離すと、ベビーカーの赤ちゃんが私の腕を触っているのであった。
隣に座ったのは若いお母さんだ。
赤ちゃんは、じっと私の目を見つめて、ちょこちょこ私の腕を触る。
まん丸の目だ。
赤ちゃん特有の、ほっぺたの重さで引っ張られて大きく丸くなった目だ。
ベビーカーから身を乗り出して、私の目をまじまじと見ながら、遠慮する素振りも見せず、人目もはばからず堂々と私の腕を触りつづけた。
そっちがその気なら、と私は思った。
私も遠慮せず赤ちゃんの腕を触った。
お互い様だ。
お互い様だが、どちらかというと私のほうが得をしているといえるだろう。
しばらく互いに遠慮なく腕を触りあっていると、赤ちゃんの目の前にある、降車を知らせるボタンが、ピンポーンと鳴って赤いランプがついた。
赤ちゃんの目はそのボタンに吸いつけられ、私はぼろきれのように見捨てられた。
どうひいきめに見ても、私より赤いランプのついたボタンの方が魅力的だ。
いさぎよくあきらめた。
そのうち赤ちゃんはボタンにも飽きて、「おー」とか「めー」とか声をあげだした。
いい声だ。
母親が、「はーい、もうすぐだからおとなしくしてね」と黙らせようとする。
よけいなことをしなくてよろしい。
不愉快だ。
もっと聞かせろ。
「はーい、ボーロあげましょ」と言って、赤ちゃんの口にボーロを一つ入れてやった。
母親の指は、爪が長く、爪には銀色と青のマニキュアが塗られていた。
不愉快さ倍増であった。