若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

坂野潤治『明治デモクラシー』

明治二十年、農商務大臣谷干城行政改革を訴えて受け入れられなかったため辞任している。その意見を読むと不思議な気がする。

「莫大な国債を発行して、道路、鉄道などを作っているが、役立っているものは少なく、とんでもないむだづかいであるのに、役人はその責任を問われない。各省庁は予算の獲得競争に明け暮れるだけで、縄張り意識が強く、協同して国の発展につくそうという意識がない」

明治二十一年に発表された、徳富蘇峰の意見を読んでも不思議な感じがする。

「官庁が許認可権をにぎる分野が多すぎて、民間の活力がおさえられている。官庁の意向を知るためには、天下りを受け入れるのがいいということになる」

今も120年前も変わらないなあと感心すればいいのか。このように批判する人がいたから、なんとか120年もったということか。
激しく変化している点もある。明治十二年、福島県自由民権運動河野広中は、運動の総本山高知の立志社を訪問した。
ああそうですかと軽く考えてはいけませんよと、著者は河野広中の日記を紹介している。
福島から高知に行くのがいかに大変だったかわかる。汽車に乗ったのは、品川横浜間と、大阪神戸間だけで、あとは徒歩、人力車、川を船で下っている。でこぼこ道を人力車で五時間というのはきつそうだ。三十時間ぶっ通しの移動もある。二日間遊郭で遊んだことも書いてあるが、翌日反省している。

「広中、前述を悔い、改めて上帝に誓う」
上帝に何を誓ったのか。
「妻妾にあらざる婦に淫せず」

妻や妾以外の女には手を出さない。「妾」は公認だった。
私が子供のころは、「妾」「二号さん」はまあふつうであった。近所の農家のおじいさんに二号さんがいた。おじいさんの長男が結婚した。ある日母が感心したように言った。

「あのお嫁さんは強いネエ。二号さんと手を切らせたらしい」

すぐ近くに家が建った。二号さんの家だということだった。
近所の老夫婦の娘さんも「二号さん」だった。

「妾」「二号さん」は、理解しにくい言葉であったが、なんとなくわかったような気にはなっていた。きれいだけれどさびしい女の人。

あるとき、母がどこかのおばあさんと話していた。おばあさんは、「私、妾してますねん」といった。
私は、驚いておばあさんの顔を見た。おばあさんの顔、おぼえてます。