「認知症」という言葉にも慣れてきた。
はじめて聞いた時は、そんなヘンな言い方をしなくても「ボケ」でよいではないかと思った。
テレビや新聞で、「認知症」をとりあげていることがある。
見たくない。
理由ははっきりしている。
母が「認知症」だからだ。
目をそらしたいとか、向き合いたくないとかいうことでしょう。
そんなことではダメだ。
こういうのも、「認知症」の一種だと思う。
「認」とか、「知」に関する「症」だ。
NHKで、「あなたの親が認知症になったら」というような番組をしていた。
見てみよう!と決意した。
別に力むほどのことではない。
自分の母親が認知症になった人の手記をもとに、ドラマにしてある。
馬渕晴子さんが、ボケた母親をうまく演じていた。
十数年前の母を見ているような気分であった。
年をとると、なんとなくぼんやりするのはふつうだ。
物忘れをするのもふつうだ。
認知症の場合は、「病的物忘れ」になる。
「ふつう的老人物忘れ」と「認知症的物忘れ」と、どう違うのか。
見分けがつくのか。
経験すればすぐわかるから、心配しなくてよろしい。
「ふつうの老人」が、どう見られているか、父が入院した時に知った。
お医者さんや看護婦さんが、病状や今後のことを説明するのに、本人を相手にしない。
私が呼ばれる。
はじめ、なぜ私が呼ばれるのかわからなかった。
父は、非常にしっかりした老人だった。
どうやら、病院は、70歳を超えた人を「ふつう」ではないとみなしているようだ。
「ふつうの老人」は「ふつうではない」
父は、入院していた中病院から、大病院に移って手術を受けることになった。
父と私が看護婦さんから説明を受けた。
そこでも看護婦さんは、私に説明する。
父は自分で聞かないと気がすまないので、色々確認する。
看護婦さんが、「息子さんに説明しときますからネ」と言った時、そばにいた看護婦さんが声をかけた。
「いいねん。説明してあげて。○○さんは、ふつうのおじいちゃんとちがうらしいわ」
中病院からの申し送りに、「ふつうのおじいちゃんではありません」と赤ペンで書いてあったのだろう。
父が、なんでも自分で確認しないと気がすまなかったのも「認知症」の一種だろう。
母が認知症になってから、私は「人間皆認知症」と悟った。
あなたのことも、認知症と思ってます。(^o^)丿