若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

我には許せ敷島の道

多賀宗隼著『慈円

天台座主慈円は『愚管抄』の著者として日本史で習った。
源平の争乱時代から鎌倉時代にかけて活躍した人だ。

百人一首に、印象の薄いあまりぱっとしない歌がある。

おほけなくうき世の民におほふ哉わがたつ杣にすみぞめの袖

「身のほど知らずにも私は人々に仏法を広めようとしております」というほどの意味らしい。

慈円の兄は関白九条兼実
門中の名門で、兄弟で政治、宗教を押さえていた。
慈円の歌が六千首伝わっていると聞いておどろく。

しかし、驚くのは素人だからで当時の人は無茶苦茶に歌を作ったらしい。
藤原家隆は六万首。
慈円も何万首作ったかわからない。
今に伝わるのが六千首というだけである。

仏道修行に疲れて一首、疲れなくても一首、寺の規則を一つ作って一首、もう一つ作ってもう一首、規則を守れてよかったと一首、規則を破って反省のために一首、来客と話が弾んで相手をしながら百首、話が弾まないのであくびをしながら百首。

「百首」というのをよくやったらしい。
とにかく作りまくる。
ひまさえあればと言うならまだしも、ひまもないのに何かをしながら作る。

和歌を作るのを禁じられたら、手が震え幻覚が生じるという立派な和歌中毒、和歌依存症である。

あまりのことに、ある人が、あなたも名誉ある天台座主、え〜かげんにしなさい!と忠告した。
それに対して歌で答えたというのだからどうしようもない。

人ごとにひとつはくせのありぞとよ我には許せ敷島の道

それまで、『愚管抄』の著者としてしか知らなかったが、この歌を知って一気に慈円が好きになった。

で、この伝記を読む気になったのだが「和歌でたどる慈円の生涯」である。
花鳥風月だけを詠んでるのではなく、とにかく何かにつけて作りまくってるので、どうしても歌でたどらざるを得ないようだ。

というか、歌を取ったらこの人の人生はなくなるということか。

失礼ながらろくな歌はない。
と思います。

源頼朝に頼んで平重盛の領地であった越前の藤島庄の年貢を分けてもらうことに成功したので、頼朝が京都に来たとき贈った歌。

君ゆへにこし路にかかる藤浪はわがたつ杣の松の末まで

「ありがとうございます」という意味だ。
と思います。

慈円は、「わがたつ杣」というフレーズが好きだったようだ。