「ハグ」という言葉を初めて見たのはいつだったか。
そう古いことではない。
「彼にハグしてもらった」
何のことだろうかと思った。
「抱擁」のことらしい。
「ハグ」という字を見ると、寒気がする。
ブルッとふるえる。
私の感情と膀胱を刺激する数少ない言葉だ。
今朝は、朝から楽しみであった。
きっと駅前にTさんがいるぞ。
バスが早く駅に着かないかと、座席で腰を浮かせていた。
いました!
実にさわやかな笑顔であった。
いつもこんな顔をすればいいのに。
意外なことに、Tさんは白い手袋をしていた。
選挙運動中、クセになってしまったのか。
これまた意外なことに、Tさんは何もしゃべらず、にこやかにお辞儀をするだけだった。
好感が持てる。
選挙運動期間中、いつものようにわけのわからんことをしゃべり続けて、ネタが尽きたのであろうか。
いや、尽きるほどのものじゃない。
二位当選という充実感と達成感に胸が一杯で、言葉が出ないのであろうか。
バスを降りた人は、いつものように、Tさんを無視して改札口に向かう。
しかし、今朝の「無視」は、あたたかい「無視」のように思えた。
人の流れは、いつもならTさんを避けるように改札口に向かうのであるが、今朝は、わずかではあるが、Tさんのほうに近づくかのように見えた。
「おめでとう!」と言いたい気持ちを秘めてというか抑えてというか、黙々と改札口に向かっている感じがした。
いい雰囲気だ。
改めて、ここはTさんの縄張りだと思った。
選挙期間中、ここに殴りこみに来たやつらのなかで、御礼に来るやつがどれほどいるか要チェック。
と、一人の男性が、Tさんに向かって歩いていった。
「おめでとうございます」と声をかけた。
Tさん、破顔一笑。
結構親しそうだ。
握手するかと思ったら、な、なんと、ハグした!
ハグでっせ!ハグ!
朝の駅前でTさん、支持者とハグ。
お互い背中を軽くたたきあっていた。
おしゃれではないか。
見ていると、「ハグ」もいいもんだという、なまあたたかい気持ちが、すっぱい唾液とともに口の中に広がっていくような気がしないでもないようなヘンな感覚におそわれるような錯覚に陥ってるのじゃないかと心配になって、目をそむけるように改札口に急いだ。