きのう、テレビをつけたら、「超能力者」が出ていた。
アメリカ人男性で、一度読んだ本は、一字一句そのままにおぼえてしまう。
この人は、脳が普通とちがうらしい。
おぼえこむだけでもすごいが、瞬間的に、引っ張り出すというのがすごい。
というか、おぼえこんでるだけでは、おぼえこんでるかどうかわからない。
引っ張り出して見せられて、はじめて、おぼえこんでたんだなとわかる。
私は、質問されて、すぐに引っ張り出す自信はない。
誰に質問されたわけでもないのに、ふと思い出すことは多い。
これも不思議だが、能力とはいえないだろう。
あまり役に立つものではない。
テレビを見ながら、そんなことを考えてたら、豆腐屋のおじいさんを思い出した。
子供のころ、いろんな商売の人が、近所にやってきた。
自転車やリヤカーに、商品や商売道具を乗せて、どこからともなくやってくる。
子供にとっては、異界からの訪問者、という感じで、人気がありましたよ。
傘の修繕のおじさん、包丁やかみそりの刃を研ぐおじさん、いかけ屋のおじさん、らお屋のおじさんなどである。
子供のころは、「おじさん」などという上品な言い方はしなかった。
生意気かつ失礼にも、「いかけ屋のおっさん」などと呼んでいた。
珍しいところでは、「がたろ」というおっさんがいた。
幼稚園のころだったか、大きい子達が、「がたろ来てる」というのでついていった。
おっさんが、川の中に入って、網を張って歩き回っていた。
金目の物を探してたんでしょうな。
そういう人達は、だいたい昭和三十年ごろ、私が十歳前後には姿を消したと思う。
「もはや戦後ではない」といわれたころだ。
一番遅くまで残ったのは、豆腐屋ではないか。
スーパーの、パック入りが普及するまでは、まわってくる豆腐屋さんは便利な存在だっただろう。
腰の曲がった、丸いメガネをかけたおじいさんが、黒いゴムの前掛けをかけて、長靴で重そうな自転車を押してきた。
夏の炎天下もしんどそうだったが、真冬に豆腐をすくい出すのを見ると、私の手も痛くなるように思った。
生きていくのは厳しい、に近い感覚をおぼえた。
中学くらいの時、母がそのおじいさんが死んだと言った。
「あの人も、働きづめの一生やったねえ」
「働きづめの一生」というのがよくわからなかったので、記憶に残っている。