母の葬儀は、あわただしかった。
焼き場がいっぱいで、地元の奈良市がダメ、大阪もダメ、結局生駒市の焼き場が午後一番だけ受け入れ可能ということだった。
気温が下がると、亡くなる人が増えるのだ。
我が家は神道だが、焼き場につくと係の人が神主さんに、後がつかえているので、のりとを1分で済ませてくれといった。
神主さんは、いつも朗々と読み上げるのりとを、まるで早口言葉のようにすっ飛ばした。
いつもこの調子ですっ飛ばしてほしいと罰当たりなことを考えていた私をお許し下さい。
葬儀のときに使う母の写真を見てなつかしかった。
平成6年に私がとったものだ。
ある日突然、父が、庭で写真をとってくれといった。
妙なことをいうなと思ったら、葬式用の写真だという。
いかにも用意周到な父らしいと、おかしいような、さびしいような、複雑な気持ちでシャッターを押した。。
父と母と、一人ずつとった。
認知症がかなり進んでいた母には、何のことかわかっていなかっただろう。
ちょっと戸惑ったようなほほえみを浮かべている。
母の認知症はいつごろから始まったのだろうか。
20年ほど前、私たちと両親は隣同士で暮らしていた。
ある日、会社から帰ると、家内が笑いながら報告した。
母が、高等女学校の同窓会に行くときの服を選んでほしいといってやってきた。
いっしょに選んで、帰ったと思ったら、しばらくしてまた同じことをいってきたという。
「おかあさんもトシやねえ」
これはまだ笑い話であったが、そのうち徐々に笑い話ではすまなくなってきた。
今の「認知症」、当時の「痴呆症」だ。
父は、「痴呆症」の本をいろいろ買って読んでいた。
私も、何か疑問があると、すぐ本を読んで調べる方だが、このときは、「現実を受け入れたくない」という気持ちが強かったのだろう、「痴呆症」についてはまったく調べなかった。
父が相談していた医者に会いに行って、「あなたは、自分の母親が痴呆症だという事実を受け入れたくないのだ」といわれても、納得できなかった。
「母はたしかにおかしい。しかし、痴呆症なんかではない」
私もかなりの重症でしたね。