若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

『ニコライの日記』:ロシア人宣教師が生きた明治日本

文久元年(1861)熱意を胸に25歳のロシア人宣教師が函館に降り立った。以来50年、生涯伝道に奮闘したニコライ。」

有名な「ニコライ堂」に名を残した人です。
と言っても、ニコライ堂は絵でしか見たことないですが。

去年は、東日本大震災紀伊半島の豪雨災害の年でしたが、ニコライの日記にも地震と豪雨災害が出てきます。

1889年、十津川豪雨災害によって生活基盤を失った村民たちが北海道に新十津川村を作ります。
ニコライは、大阪で、新天地に旅立つ村民たちに出会ってます。

1891年には、7000人の死者を出したという濃尾大地震に遭遇してます。
1853年の関東での大地震以来の規模だそうだと書いてます。

明治日本も、結構大災害に見舞われてます。

さて、ロシア正教を日本に根付かせようと、周囲の反対を押し切ってロシアを飛び出したニコライは大変な苦労をします。
日本に来て20年後、ロシアに一時帰国したニコライは、神学校で若者たちに日本でも伝道活動を呼びかけますが、一人も手をあげない。
「日本に行けばどんな特典があるのか、どんな利益があるのか」と聞くばかりで、ニコライを憤慨させてます。

カトリックプロテスタントの教団が、日本へどんどん宣教師を送り込んでいるのに、ロシア正教はニコライの孤軍奮闘、思うような成果が上がらない。
おまけに、日本人は実利一点張りで、西洋の進んだ物質文明というおまけにつられてキリスト教に近づいてくるだけだとぼやいてます。

1882年、千葉県南部の住民から、村の堤防を修理してくれたら二千人が入信するという申し入れがあって、ニコライはカンカンですよ。
ロシア正教の葬式を見学に来て、喪服がいらないのが気に入ったという人が多いのにもあきれてます。

1881年5月27日の日記にはこんな記事があります。
足利の教会で、集まった信徒たちから手に接吻を受けるんですが、「接吻するということがまだできなくて、私の手をなめるものたちが何人かいた。ひどく気持ち悪い」

天皇ロシア正教に改宗させたいという希望を持ってたようですが、訳者の中村健之助さんによれば、当時のプロテスタント側も同じことを考えてたそうです。

ニコライによれば、当時の日本は先進西欧にあこがれ、英語ブームで、ロシアに興味を持つものなどなく、日本布教に賭けた自分の人生は無駄だったのではないかと悩んでます。

ニコライさんには申し訳ないけど、ロシア正教に関心はありません。
ありませんが、こういう人がいたんだなと、興味深く読めました。

この日記は、関東大震災で失われたと思われていたそうですが、その前にロシアに送られていて、それを訳者が発見したというのですからドラマチックですね。

↓ことちゃん百面相。