若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

訃報

このところ、同窓生の訃報を聞かなくなってました。

十数年前はけっこう多かった。

きのう、「訃報」という件名のメールが届きました。
Yくんが亡くなりました。

彼とは、家が近所で、幼稚園、小学校、中学校、高校がいっしょで、小学校の時は同じ書道教室に通ってた。
幼稚園と中学校のときは、私が彼の家までむかえに行って通った。

こう書くと、非常に親しい友人のようですが、そうではないです。
「あなたの友人は?」と聞かれたら、Yくんも外せないんですが、親しいようでそう親しいことはないという、不思議な関係です。
まあ、友人って不思議な関係ですかね。

幼稚園に二人で通ったことは、なぜか映像記憶に残ってるんです。
二人が川沿いの道を歩いてる姿が目に浮かぶ。
自分の姿も見えるというのは変な話ですが、見えるんだから仕方がない。
ときどき、女子大教授だった彼のお婆ちゃんもいっしょでした。

子供が遊ぶ「縄張り」みたいなものがありました。
Yくんとは、家は近いが、縄張りがちがった。
で、いっしょに遊ぶことはなかった。

そして、Yくんは「理系の人」でしたし、私は文系でした。

中学時代、毎朝私がむかえに行ってたんですが、ある朝、彼が家の前で待ち構えてた。
どうしたのかと思ったら、ニコニコと家の入口の押しボタンを指さした。

電気の「呼び鈴」を彼が製作したんですね。
これを押してくれ、と言って、彼はいそいそと家に入った。

押すと、家の中で「ジー!」という音が聞こえて、彼がいそいそと現れた。

アマチュア無線の免許を取ったのも中学の時です。
駅に着くまで、彼が電気関係の雑誌を見せて、熱烈に語るのは、電気に何の関心もない私にとって少々迷惑であった。
彼が熱烈に語った中で今もおぼえてるのは、部品メーカーの「ミツミパーツ」という会社の名前だけです。

高校時代、アマチュア無線のカードのデザインを頼まれたことがありました。
アマチュア無線の同好者たちが、「受信しました!」という感じのはがきを交換してたようです。

大学も電気関係、就職も電電公社と、まさに電波まみれの一生でした。

最後の至近接触は、十年ほど前の高校の同窓会でした。
会場で、おしゃれなナイスミドルがニコニコ近づいて来ると思ったら、それがYくんでした。
名刺をもらって、えらくなったなあと思いました。
また「ミツミパーツ」の話だと困るなあと思いましたが、そんな話はぜんぜんなくて、楽しい話でうれしかったです。

最近、ひょんなことから彼の名前を聞くことがあって、彼が、私との「お手々つないで幼稚園」の話をしたと聞いたとこだったんですが。

ほっぺたの赤い、いかにも健康優良児という感じの顔が目に浮かびます。