きのう、近鉄電車に乗ってました。
ハイキングの中高年が多かったです。
向かいの席にも、リュックを背負った女性が四人。
私より少し年上みたい。
おしゃべりが聞こえてくるんですが、どうも私が以前住んでいた地域の人達らしい。
東大阪市高井田地区です。
そのうち、ひとりの女性が、「私、第四小学校」と言ったのでびっくりしました。
我が母校である。
「先輩!」とあいさつすべきところでしょうが、内気な私は黙ってました。
思い出話しがいろいろ出ました。
「授業中、学校の前を走ってる貨物線を見てたら、豚を積んだ列車が通った」
あったあった!
牛を積んだ列車も走ってましたね。
この貨物線に関して、時々先生から注意されました。
「貨物線の線路に入って列車を止めるようなことになったら、その列車に乗せて連れて行かれるぞ」
列車に乗せられて連れて行かれるというのは、小学生の私にとって、この上なく恐ろしいことに思えました。
先輩女性は、戦後まもなくのすし詰め教室の思い出も語ってました。
「教室が足らなくて、午前と午後に分けて授業をした。それで、学校の横にあった豚小屋をつぶして校舎を作った。豚小屋教室と呼んでいた」
それは知りませんでしたね。
私たちが入学した頃、ひと棟新しい校舎があったけど、あれが「豚小屋教室」だったのかな。
その校舎には三教室あったんですが、壁で仕切られておらず、開閉式の「間仕切り」でした。
入学式なんかの時は、間仕切りを開いて講堂に早変わり!という、「戦後感」あふれる校舎でした。
60年前、ピカピカの一年生の私が、このお姉さんと豚小屋教室の前ですれちがっていたかもしれないなあと、しみじみと見つめたのであった。