三十にして立つ、というと、決然!という感じです。
孔子の時代の「三十」というと、今なら、「四十」とか「五十」ですか。
五十にして立つ、というと、なんか遅すぎという感じですね。
五十で立ってもしかたがない。
走ってなければならない。
あかちゃんは、だいたい1歳にして立つ。
6月1日で1歳になるあきらくんは、だいぶ前から立ってます。
立って、一歩くらいは踏み出す。
あと、続きません。
あきらくんの兄のゆうちゃんは、立ったと思ったらすぐにスタスタ歩いた。
きのうまではってたのに、もう歩いてるという感じでした。
それにくらべると、のんきなもんです。
今日、あきらくんを見てたら、かなり長時間立てるようになってました。
長時間といっても、一時間二時間というのじゃないですよ。
一秒とか二秒の話です。
二秒、三秒と立ってるんですが、別に威張りもしない。
どうじゃ!という感じじゃないです。
見てくれ!という感じでもない。
なんとなく立ってます。
もうちょっとうれしそうに立ってもいいと思います。
はうのと立つのと大違いだと思うんですが。
「立ったぞ!」という喜び感がほしい。
立ってると気づいてないのかな。
立ってもよし立たずともよしと、達観してるのかな。
立つとか立たないとかいう世界観とは無縁なんでしょうね。
立つのも平気、尻餅をつくのも平気というあきらくんの心境はうかがい知れません。
↓気が向くと、自分の足の親指をかんでます。