画家バーナード・ホール(1859〜1935)の伝記を読んでます。
イギリスで生まれてオーストラリアで活躍した人です。
ぜんぜん知らない人です。
本の題が、『バーナード・ホール:忘れられた芸術家』というんですから、知らなくて当たり前ですね。
この人は絵の才能があって、ヨーロッパで勉強して、イギリスにもどって若手画家として売り出しの最中だったんですが、オーストラリアからイギリスに来ていた娘さんに恋をしたんです。
彼女がオーストラリアに帰ってしまって悶々としてた時、「メルボルン美術館館長兼美術学校教授募集」というウソみたいな話が舞い込んだ。
ホールさんは喜んで飛びついた。
オーストラリア側にとっても、彼のようなまともな教育を受けた新進気鋭の画家が来てくれるのはありがたかった。
当時のオーストラリアは地の果ての未開地という感じですから、まともな人は見向きもしなかった。
オーストラリア国内でも募集してたんですが、「退職警察官」とか「馬方」とか、わけのわからん人たちがうじゃうじゃ応募してくるような状態だった。
「美術館館長」と聞いて、すわって絵の番をしてればいいくらいに思ってたんでしょう。
で、双方にとってハッピーな話のはずなんですが、そうはいかない。
レベルがちがいすぎたんですね。
たとえば、美術館が絵を購入すると聞いて、大勢の人が「我が家のお宝」を持ってやってくる。
ろくなものがない。
ニセモノなんかましな方で、名画の写真に色を付けたものをホンモノと信じて持ち込んだりする。
ガラクタを美術館に並べるわけにはいかない。
ホールさんがそれを鑑定する。
西洋美術はまだいいとして、「これは15世紀の日本画を代表する名品です」と言われても困ってしまう。
なお困ったことに、お宝を持ち込むのは、当時のメルボルンの名士たちである。
「なに!これがニセモノ!イギリスから来た生意気な若造が何を言うか!」
大変苦労したようです。
苦労したようですが、メルボルン美術館の充実に努め、美術教育の基礎を固め、オーストラリア近代美術の世界に大きな貢献をした人のようです。