新聞に「音痴矯正」という広告。
「音痴」で思い出すのは得意先の社員旅行での出来事である。
バスで山中温泉に出発。高速道路に入ると、早速酒とカラオケ。全員に歌わせるスタイルであった。
現場のSさんの「会津の小鉄」のうまさには驚いた。この人は、ボーっとしたおじさんで、同じミスを繰り返しては、しょっちゅう工場長にどなられている人である。しかし歌は見事なものであった。
工場長から声がかかった。「うまいっ!仕事もそれくらいやったれよ!」
切実な声であった。
この旅行には、社長の長男が家族で参加していた。お医者さんであった。幼稚園くらいの男の子が、最前列の窓際に座り、奥さんがその隣。通路をはさんでご主人が座っていた。
幹事が奥さんを指名した。奥さんは、ものすごく嫌がっていたが、無理やり歌わせられることになった。曲は「岬めぐり」
演歌を聞き飽きていた私は、盛大に拍手した。
彼女が歌いはじめた時、私は思わず叫んだ。
「やめろっ!」
信じられないほどの音痴であった。歌うのを嫌がったはずだ。はじめは気の毒に思ったが、だんだん腹が立ってきた。はじめは聞いているのが苦痛であったが、だんだん快感をおぼえてきた。サドマゾ兼用お徳用音痴であった。
永遠に続くと思えた一番がやっと終わった。乗客は、つかの間の安息をむさぼった。来るべき二番を身構えて待った。
と、その時、ご主人が奥さんのほうに手を伸ばすのが見えた。奥さんからマイクを取った。
むむ!妻の音痴を見かねてというか聞きかねて、代わりに歌おうというのか!イヨッ!愛妻家!憎いネッ!コンチクショウ!
彼が歌いはじめた時、私は思わず叫んだ。
「やめろっ!」
し、信じられん!妻をもしのぐ音痴!こんなことがあってよいのか?最低の音痴女と、最悪の音痴男が夫婦になる確率とは?あるいは、音痴が縁で結ばれた二人なのか?
あまりのことに、乗客は当惑を隠しきれなかった。
いや!と私は思った。ひょっとして、この人、音痴ではないのでは?音痴と見せたのは妻をかばうため世間を欺く仮の姿?これぞ究極の夫婦愛音痴?
しかし、ニセ音痴でこれだけカンペキに外せるものか?
乗客は疑惑にさいなまれた。
当惑と疑惑に翻弄される乗客を乗せて、観光バスは北陸の名湯山中温泉を目指して高速道路をひた走るのであった。
つづく