母が入居している施設に行って気づくのは、ボケが進むにしたがって、目がうつろになってくるということである。「目の光」というのは不思議なものだと思う。目のどこが変わったとは言えないが、はっきり違う。
Kさんは、90歳近い女性で、きれいな言い方をすれば、「童女」のような方である。ヨチヨチ歩きで、食事は、一口食べると、箸と茶碗を持ったまま一眠り、昼食に3時間ほどかかることもある。どこを見ているのでもないような目であった。言葉もほとんど出ない。
皆で室内ゴルフのようなものをしたときのこと。
ゲートボールのスティックでボールを打って、何メートルか先の穴に入れるゲームである。
こういうとき、男はだめですね。
おばあさんたちは、きゃあきゃあ言って楽しむのであるが、おじいさんたちは、むっつり難しい顔をして、なかなかゲームに参加しようとしない。
男はつらいのである。失敗してはいけないのである。ヘラヘラしてはなめられるのである。子供みたいなことはやっておれんのである。
鎧兜に身を固め、妻子を護って数十年。脱げなくなってしまうのである。気の毒である。
そういう意味で、女性でも、「職業婦人」の方が、「気の毒な人」が多いようです。
さて、Kさんの番になった。
無理だと思いましたね。職員さんが、手取り足取りである。
「さ、これを、こう持って。そうそう、ここに立って、ホラ、このボールですよ。これをね、ポーンと打ってね、ハイ、むこうの、あの穴に入れるんですよ」
Kさんには無理だろうと思ってみていると、な、な、なんと!
Kさんの目が、ランランと輝やきだしたではないか!
足元のボールを見て、数メートル先の穴の位置を確かめる鋭い視線!ステップを微妙に調整!ボールを見つめる!穴の位置を再確認!
厳しい目である。
これは「童女」ではない!「ゴルファー」である!
打ったボールは外れて、Kさんは、またもとの「童女」に戻った。
後で聞いた話では、Kさんは、若い頃相当ゴルフをされたということであった。そればかりか、ロッククライミングなども楽しまれた方なのであった。
ほとんど壊れてしまったKさんの脳のどこかに、「ゴルフ」が残っているのである。不思議である。
そして、「ゴルフ」になると、目の輝きが戻るのである。不思議である。