若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

戦艦陸奥

わが社は、日本を代表する、と言うと、何をえらそうにと思われるであろうが、別に威張るつもりはなく、日本を代表する中小企業地帯にあるということを、言いたいのである。

わが社の近くに、重量物運搬専門の運送会社がある。
大きなものを運ぶのだから、車も大きい。
車が大きいと、車庫も大きい。
大きな車庫に、大きな車が何台も入っている。

その会社の前を時々通るのであるが、十年ほど前、車庫の横の方に、長い土管のようなものがあるのに気づいた。
特に注意してみる気もなかったので、土管なのか鉄パイプなのか、とにかく、長さ20メートル、直径1メートル以上の、大きな物体だと思っていた。
それが、塀に沿って地面に転がっていた。

しばらくして、その物体の前に、看板があることに気づいた。
板切れに何か書き付けてあるとは思ったが、読む気はしなかった。

あるとき、その看板の字が目に入った。
魚屋さんの看板に勝るとも劣らぬ下手な字であった。
「戦艦陸奥の主砲」!!

この、土管あるいは鉄パイプと思っていたものが、「戦艦陸奥の主砲」だったとは!

かつては世界最強の戦艦とたたえられ、帝国海軍、いや、大日本帝国の誇りであった戦艦陸奥の主砲が、なぜこんなところに転がっているのか?
許せん!
私は、日の丸の鉢巻を締めて、運送会社の事務所に乗り込んで社長に事情を聞いた。

昭和18年、基地に停泊中の戦艦陸奥は、放火が原因と思われる爆発によって沈没。犠牲者は千名以上であった。
昭和45年に主要部分が引き上げられ、主砲は、京都の博物館に引き取られ展示されていた。その博物館が廃館となり、和歌山の博物館に引き取られることになって、運送をこの会社が受け請け負ったのであった。
和歌山の博物館の受け入れ態勢が整うまで預かってほしいと言われて、一年以上この状態であるということだった。

土管だと思っていたのは私くらいのもので、新聞、テレビの取材は相次ぎ、戦友会などもたびたび訪れ、主砲の前で記念撮影をした言うことであった。

現在この主砲は、東京の「海の博物館」で展示されているらしい。

社長は「東大寺の仁王さんも、ウチが運ばしてもろたんでっせ」と言った。
「仁王像大修理」のとき、この会社が運搬に当たったらしい。
その時のビデオを貸してもらった。

仁王像を運ぶのはさぞ大変だっただろうと、当たり前のことを思った。