若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

ライオンの糞に関してJR西日本当局に問う

JR西日本が、紀勢線での鹿と列車との衝突事故を防止するため、被害多発地帯にライオンの糞をまく案を発表したのは去年のことである。

それまでも、JR西日本では、事故防止のためと称して、さまざまな策動を行ってきた。
発光機、音響装置などの設置、異臭のする化学物質の散布など手段を選ばす、悪質な妨害工作を繰り返してきた。

これに対して、若草鹿之助商店鹿事業部では、鹿の自由通行権を犯すものとして、厳しく糾弾し、抗議してきた。

当商店と鹿との関わりは平安時代にさかのぼる。
当時、鹿の角や皮は、武具、衣服、楽器などに使用され、高価で貴重なものであったので、鹿の支配権に関して争いが絶えなかった。

近畿の鹿については、春日大社伊勢神宮熊野神社がそれぞれに支配権を主張して譲らなかったが、後一条天皇の時代に藤原道長の裁定により、畿内大和摂河泉については春日大社紀州熊野神社、伊勢志摩は伊勢神宮と定められた。
また、春日大社に対しては、特別に、鹿せんべいの製造販売権が認められた。

鹿の管理については三社とも「若草鹿之助商店」に依頼した。管理権を握った若草鹿之助は強大な勢力を誇り、「従三位鹿之守」に任ぜられた。
当時、「飛ぶ鳥を落とす」と言われた藤原道長に対して、鹿之助は、「走る鹿を倒す」と恐れられていた。
この鹿之助の墓が、若草山古墳である。規模において恐れ多くも(気をつけ!)仁徳天皇稜をしのぐことからも、その権勢の巨大さが偲ばれよう。(休め)

三社による鹿の支配体制は、引き続き鎌倉幕府御成敗式目によって認められ、徳川幕府の寺社諸法度でも確認され、明治新政府による明治五年の太政官告示によって、寺社の諸特権が廃止されるまで続いたのである。

明治六年、若草鹿之助商店は、「宮内庁御用達鹿係」に任ぜられ、敗戦までその任に当たった。
敗戦後は、SCAP(連合軍最高司令部)の命令により、マッカーサー元帥直属となった。余談ながら、このときマ元帥から贈られたのが、現在私が愛用しているサングラスである。
サンフランシスコ平和条約発効後は独立非営利法人として、鹿の権利を守るための業務を行っている。

簡単ではあるが、当商店の沿革を述べた。
これによって、当商店が鹿問題に関して、JR当局と交渉する権利を有することの歴史的正統性がご理解いただけると思う。