若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

橋本先生

橋本先生が亡くなった。
77歳。

年賀状だけは出していたので、奥様が電話で知らせてくださった。

私が高校3年で落第した時の担任の先生であるから、私にとっても印象の深い先生だし、たぶん先生にとっても印象の深い生徒だったと思う。
実にぶっきらぼうな先生であったが、生徒には好かれていた。

生物の先生で、授業中の口癖は
「授業、いやだったら聞かんでいいぞ。義務教育じゃないんだから」

何か説明してから皆に向かって
「分かったモン手ぇ上げぇ」

いつもただ一人、成績が良くて生真面目なT君だけが、皆に気を使いながらおずおずと手を上げた。

「一人か?一人分かれば結構だ。マスプロダクションは嫌いだから」

「ゾウリムシの研究」だったかで、アメリカの大学の博士号を取られた。
そのニュースを聞いた私たちは、なんとか生物の授業をつぶそうと、黒板に色とりどりのチョークで、「歓迎!橋本博士!」と大書して先生を待った。

教室に入って黒板を見るなり、さすが無愛想な先生もニコニコでれでれと笑い崩れたのであった。
我々の計略どおり、研究の苦労について一時間話されたが、どんな研究だったかまるで覚えていない。

「寒天」を使って実験したことが評価されて、「オーソリチー・オブ・メソッド」と言われた、ということだけ覚えている。

私は美術部員で、美術教官室に入り浸っていた。
あるとき橋本先生が入ってきて、美術の先生に画用紙を出した。
子供さんの絵だった。
先生は、直立不動といった感じで、美術の先生の批評をかしこまって聞いていた。
なんとなくおかしかった。

私が落第しそうになっても先生は全く無関心だったと思う。
さすがに落第が決まると、家に報告にこられた。
父に向かって言われた一言だけ覚えている。

「彼も破廉恥罪を犯したわけじゃないですから」

私は、落第したが、某大学の入試に通ったので、卒業させるかどうかで職員会議は紛糾した。
最後の職員会議のとき、私は「判決」を待ちながら美術室で絵を描いていた。

しばらくすると先生が美術室に現れ、つかつかと近づいて、
「おい、だめだったぞ」
と言って実験着をひるがえして去っていった。
あっさりした先生だった。

奥様の話では、先生は私の年賀状を楽しみにしていてくださったそうだ。
返事のない年もあったが、出し続けてよかったと思った。