新聞に、「もうゴジラ映画は作らない」という記事が出ていたが、芸能界に限らず「これが最後」はあてにならない。
最初の「ゴジラ」は昭和29年だから、私が小学3年生のときだ。
冬休みに父と見に行った。
凄まじい観客で、私は下駄で足を踏まれて、帰りに病院に行ったのだった。
「ゴジラ」は大変な評判になったから、私が4年生になった時、クラスに「ゴジラ」と言うあだ名の子が誕生したのは不思議ではない。
「ゴジラ」と呼ばれることになったA君は、乱暴とか凶暴とか言うことはなく、ただ風貌が「ゴジラ的」だったのだ。
小学生に似合わぬ鋭い目つきと、盛り上がった肩、いかつい体つきが、「ゴジラ」のイメージそのままだったから、本人もそう呼ばれることに何の違和感も持たず、ごく自然に受け入れていたかどうかは知らないが、私たちは心から納得していた。
昭和30年、ゴジラシリーズ第二作、「ゴジラの逆襲」が封切られ、ゴジラとアンギラスの闘いが話題になったから、私が5年生になった時、クラスに「アンギラス」と言うあだ名の子が誕生したのは不思議ではない。
「アンギラス」と呼ばれることになったB君は、風貌がアンギラス的だったわけではない。
彼にはすでに立派なと言うか、とんでもないあだ名がついていた。
「キチガイ」と呼ばれていたのだ。
B君は普段はおとなしい子なのだが、たまに激高すると、手がつけられないほど暴れたのでそんなあだ名がついたのである。
で、このB君とゴジラのA君が、妙に気が合わないと言うのか、ヘンに気が合うというのかは心理学的に興味のある所だが、よくけんかをした。
二人ともどちらかと言うとおとなしい方なのである。
それが、なぜかけんかになる。
B君が激高してゴジラに無茶苦茶に殴りかかる。
それで、B君は「アンギラス」と呼ばれるようになったのだ。
5年、6年と私たちのクラスでは時々「ゴジラ対アンギラス」の死闘が繰り広げられたのである。
結末は決まっていて、アンギラスが泣き出すのだ。
泣いて家に帰ってしまうのである。
私は先生に言われて、何度かB君の家まで呼びに行ったものだ。
B君の家は農家だった。
ある時、泣いて帰ったB君を呼びに行ったら、庭にお父さんがいた。
野良着を着て、ゴム長をはいたいかにも人のよさそうなお父さんが、私を見て、困ったような笑顔を浮かべていたのを思い出す。