若草鹿之助の「今日はラッキー!」

日記です。孫観察、油絵、乗馬、おもしろくない映画の紹介など

ゴジラの逆襲

二十年程前、会社の事務所でボーっと外を見ていたら高級車が止まった。

降りた男を見て、「青年実業家!」と思った。
こちらへ近づいてくる顔を見て、「ゴジラ」とわかった。

「青年実業家」と思った私の目に狂いはなく、彼は建築会社を経営していると言った。
卒業以来はじめてであったが、事務所に入ってきたゴジラを見ても、私は特に懐かしい気持ちにはならず、ゴジラも全く懐かしがりもせず、あいさつもそこそこに「昨日夢を見た」と言った。

6年3組の夢だったそうで、みんなに会いたくなって連絡を取ったが、地元に残っている者が少なくて、私を含めて5人で飲もうと言う。
後の3人は、先日書いた「バルボン」の他、「インド人」と「溶接いも」だそうだ。

「インド人」は、もちろん色が黒いからそう呼ばれていたので、その色の黒さと、パンジャブ地方住民を思わせるその顔つきから、彼自身そう呼ばれることに全く違和感を持たず自然に受け入れていたかどうかはわからんが、私たちは心から納得していた。

彼とは一年の時も同じ組だった。
私たちの小学低学年の頃の写真を見ると、そのみすぼらしさは「浮浪児の集団」を思わせるのであるが、「インド人」は特に「浮浪児的」であった。

一年の担任の先生が、教室で彼に言われたことが記憶に残っている。
「先生が昨日家に行ったら、お母ちゃんいてなかったな。どこに行ってたんや?またパチンコか?」

「お母ちゃんがパチンコ」と言うのは私にとって強烈であった。

4年生も彼と同じ組で、私は彼といっしょに校庭の棕櫚の木の周りで「インド人の踊り」を踊っていて先生にしかられたことがある。

彼がどんなになっているか楽しみだった。
彼は、おしゃれなブレザーを着て現れた。
「インド人風」でもなく「浮浪児風」でもなかった。
魚屋をしていて、ボーイスカウトの世話役などをしていると言った。

素晴らしい変身振りであった。

聞きはしなかったが、「お母ちゃんのパチンコ」はその後も続いたのではないか。
と言うのは、彼が中学の時、盲腸で一週間入院したが、その間誰も見舞いに来てくれなくて、「オレなんかどうでもええんや」と思ってぐれかけたことがあると話したからだ。

その再会の日から二、三年後、得意先の社長の葬式で彼に会った。
魚屋として、その社長に可愛がってもらっていたという事だった。